うなぎ屋のせがれがデジタルマーケターになるまで① ≪新潟→東京編≫
古川和茂(ふるかわ かずしげ)と申します。
新潟県 加茂市 の出身です。
平"和" に 加"茂" で暮らせますように。
という両親の願いが込められた、ありがたい名前を授かりました。
この記事は私の自己紹介であり、気が付いたらデジタルマーケターなどという横文字でイケてる感じ?なポジションになっていたというお話です。
うなぎ屋のせがれと呼ばれ
私の実家はうなぎ屋を営んでおり(2年程前に閉店しました)、幼少のころは「いつか店を継ぐんだろうなー」とか思っていました。
⇧ お店の写真(焼き鳥も扱っていたので「鳥新」という屋号です)
中学ぐらいまでは屋号の「鳥新!」って呼ばれることもあり、それが嫌で嫌でたまりませんでした。今思えば何をそんなに嫌がっていたんだろうと思うんですよね。だって周りが無料で宣伝してくれていたんですから。
学ぶことは大好きなのですが、中1の初めての期末テストで出題範囲を思いっきり誤ってしまい結果は最悪なことに。これをきっかけに、気持ちが落ち込んでしまい勉強から遠ざかってしまいました。
このままでは高校への進学すら危うい。。。そう思った中3から必死で勉強し始めました。
高校で何を学びたかったということでも無く、とりあえず、とある高校の普通科を受験したんですが、ここで人生の転機が。
短期間ながら必死で勉強した甲斐もあって、試験結果が良かったらしく、その高校の中では狭き門であった情報処理科へのお誘いを受けます。
当時はなんとなく「これからはデジタルがくるぞ!」的な流れだったので、即決で二つ返事しました。
「情報処理科」、つまりプログラミングを中心に学ぶ学科なのですが、これが私の型にピタッとはまりました。基本的に面倒くさがりなのですが、そんな性格だからこそプログラミングの魅力にはまったと自己分析しています。
例えばこれまでは電卓を使って、ちまちま計算しなければならなかったようなことが、コードさえ書けば、あとは勝手にパソコンが作業してくれるんですから。
そんなプログラミングに無限の自由さを感じました。
プログラミングにハマりだしてからは、夢中で勉強するようになり、高校在学中に情報処理に関する国家資格を取得するぐらいにまで至りました。
すっかり、IT系にどっぷりハマってしまった私は、家業を継ぐことをすっかり忘れてしまい、より専門的な知識を学ぼうと大学と専門学校に通うことになります。
ちなみに私の祖父は宮大工をしておりましたが、父は大工を継がずに飲食店を開いたため、息子である私にも家業を継がせるつもりはなかったそうです。(本音かどうかは未だに分かりません)
父が違う道に進む私を応援してくれたことは素直に本当に感謝しています。
御多分に漏れず、学生時代は遊びに明け暮れた時期もありましたが、真面目に勉強した時期もはさみつつ、時は流れ、いよいよ就職することに。
常々、東京で挑戦してみたいと思っていた私は東京で就職口を探します。
ちなみに新潟県民は東京に対する憧れが強いです。「ラフォーレ原宿・新潟」とか「新潟アルタ」とか、東京への憧れが強すぎて建てられたとか、そうでないとか。ちなみに今はどちらも閉店しています(泣)
私も憧れを抱いていた一人ではありますが、刺激の多い環境に身を置くことで成長に繋がるんじゃないかな、という単純な想いで上京しました。
ここからは私のキャリアを紹介します。
現在は5社目となりますが、1社目から順に紹介します。
1社目=1999年4月:鹿島建設株式会社(関連IT会社)
だいたいの年齢がばれますが、気にしない。
新卒で入社した会社は大手ゼネコン「鹿島建設」の子会社であるシステム開発会社でした。
せっかく東京に出るんだからと、新潟では体験できないであろう大規模プロジェクトに関わってみたいという下心まるだしで入社しました。
入社した会社では初めての新卒採用だったということもあり、かつ入社したのは私一人だけであったということもあって、皆さんとても懇切丁寧に色々と教えてくださいました。
サラリーマンとしての立ち振る舞い・イロハを大企業と近い距離で学ぶことが出来たのは、これ以降の人生の礎になったと確信しています。
入社当時は2000年問題と呼ばれるシステム障害が懸念されている真っ最中でありましたが、プログラミングにある程度の自信もあった私は、その困難も潜り抜け、自社の業務系ツールから大規模建設プロジェクト開発に携わるシステムまで一通りの現場に立ち会わさせていただきました。
おかげさまでメキメキと実力をつけ、3年ほどでリーダー的なポジションまで任せられるようになりました。
そして6年程経ったとき、世の中にはインターネットを利用したビジネスが注目されはじめ、六本木ヒルズで働く方たちがフューチャーされる時代でした。
システム開発の仕事としてはとても楽しかったのですが、業務範囲都合上、インターネット(世間)と繋がるようなサービスを開発することはありませんでした。
このインターネットの波に遅れることは、これからの人生において損失になるのではないかと危機感を持ち、
かつ開発として「作る」現場だけでなく、「売る」現場にも携われたら、もっとスキルが磨かれるんじゃないかということを考え始めます。
ということで、転職を決意し、
2社目=2005年6月:株式会社フォーバル
私はフォーバルに入社しました。
フォーバルは歴史のある会社で、1985年の通信自由化をきっかけに、現在の代表取締役会長である大久保秀夫さんとソフトバンクの孫正義さんが共同開発した「NCCBOX」という機器を生産されました。
NCCBOXとは簡単に言うと、自動的に最も安い通信会社の回線を使って通話が出来るようになる機器なのですが、今の時代にとっては???だらけのことかと思います。詳しくはこちらをご覧ください。
当時のフォーバルは中小零細企業向けに複合機などを販売する代理店業を生業とされていました。
「売る」現場に携わりたいと思っていた私にとって、フォーバルはかなり適していました。
フォーバルは「売る」ことに関して、ずば抜けたセンスを持つ営業集団であり、売ることに貪欲であった。というのが私の印象です。
私のフォーバルにおける仕事は「BtoB向けのサイト運営」でした。
フォーバルとしても「モノ」から「コト」を売るビジネスモデルを構築していこうと鼻息が荒かった時期であり、そんな中で将来のビジネス基盤を作っていくことが私のミッションでした。(ものすごぐシビれる環境)
具体的にはBtoB向けの業務系Saasをサイト上で販売、ならびにサポートを行うものでした。デジタルリテラシーが高くない方でも、利用しやすいサービス・わかりやすいサービスを心掛けながら、サイト内の導線設計・改修・営業担当へのフォローなどを行っていました。
数年後にはそこからさらには昇華し、事業開発推進室の一員として全社員に販売の仕組みを浸透させる、より責任あるポジションを任せられるようになりました。
営業経験のない私が、営業経験豊富な方達に営業方法を伝えるというポジションは毎日冷や汗ものでしたが、ここでの苦労が「売る」という行為に尊敬を抱かされてくれと思います。
ここまでの2社のキャリアで私は「作る仕事」と「売る仕事(※)」を経験させていただいたことになります。
※正確には売ることを支援する仕事でしたが。
それぞれが楽しかった私は、さらにキャリアを昇華させるためには?と考え始めました。
「開発も売るのも楽しい。だったら、売る仕組み(マーケ)を開発する仕事はもっと楽しいのではないか。」
こんな考えに至り、転職を決意します。
3社目=2008年11月:株式会社アイレップ
次に私はアイレップに入社しました。
今もデジタルマーケティングエージェンシーとしてリーディングカンパニーである同社は、当時も超優秀な方々で構成されていました。
インターネット広告の知識ゼロで入社した私でしたので、入社直後は営業に同行させてもらいお客様の声を直接聞くところからスタートしました。
最初の仕事は広告運用やSEO対策を行うためのツール開発でした。いまやYahoo/Googleなどの広告を自動運用できるツールは世の中にたくさんありますが、当時はひたすら人力による運用がおこなわれており、その負荷を少しでも下げることがミッションとなっていました。
具体的には検索結果(SERP)の自動取得や、リスティング広告の自動入札、広告レポーティングのシステム開発に携わることができました。
その後、テクニカル部門をまとめる立場も経験させていただき、仕事を進めておりましたが、自分を追い込み過ぎたせいか体調不良に至ってしまいました。
当時は、私がやらなきゃ、私がやらなきゃ、と自分を追い込んでいたように思います。
働くことは楽しかったのですが、徐々に与えられる心と体へのダメージに気付かず、心がポキっと折れてしまったんです。(いわゆる、うつ)
正直、この経験は後ろめたく、あまり口外することはありませんでした。
が、あえてこのノートでそのことに触れようと思ったのは、結果的に良い経験をしたと思えるようになったためです。
ここでの経験があったからこそ、根性的なものが磨かれたのは事実ですし、かつ自分の上限を知ることができた良い機会であったと思っています。
筋力トレーニングみたいなもので、ある程度負荷を与えないと筋肉がつかないように、ある程度、若いうちに苦労しておくとビジネススキルがつくと思います。(若者の皆さん、苦労は勝手でもしろって、意外に本当ですよ。でも、ほどほどにね)
そんな経験もありましたが、仕事の内容的に「ある程度一巡したな」と思えた瞬間がやってきます。
ネット広告の技術はどんどん進み膨らみますが、開発の範囲・スキル面の側面でみると比例して膨らむようには感じられないなと思えてきました。
また、もともと父が商売をしていたこともあってか、自分自身が商売や事業をやってみたい!という想いが膨らんできました。
そして、どうせなら私が好きな事や興味に近しいことを事業にしている会社でマーケティングをやってみたら楽しいかも!とも考えていました。
当時の私の選択肢は二つの事業がありました。
1、飲食事業
2、ゲーム事業
飲食業が選択肢にあったのは、やはり父の影響です。家業を継がずに離れてしまったことになんとなくの後悔というか無念さみたいなものが残っていました。
父がやってきた飲食業をインターネットの力で盛り上げていけないだろうかと考えていました。
二つ目の選択肢にゲーム事業があるのは、単に私がゲーマーであったからです。
小学生の頃に買ってもらったファミコンから様々なゲーム機器に触れさせていただき、ゲームの楽しさ・奥深さ・楽しませる仕組みそのもの、を深堀りしていきたいと思っていました。
どちらもやりたかった私は、「何をするか」では決められなかったので、「誰とするか」を基準にすることにしました。
実際に面接でお会いさせていたいた社員や社長とお話して、「その人に惚れた」と思えるところで働こうと決めました。
ここで私はアイレップを去りました。
4社目=2012年12月:株式会社ポリゴンマジック
私はポリゴンマジックに入社しました。大好きな会社です。
もともとはプレイステーションなどコンシューマ向けのゲームソフトを制作されている会社でしたが、私が入社した当時はスマホ全盛期でしたので、スマホをメインとしたゲーム開発が行われている真っ最中でした。
ということで、先の二つの選択肢の答えとしては、私はゲーム事業を選びました。もちろん理由は人。面接でお会いした社長の鶴谷さんに惚れたためです。
惚れることを言語化するのって難しいと思うんですが、一言でいうと温かいオーラを感じました笑
入社後、最初の私のミッションは、ゲームのWebメディアの開発&運営でした。
開発場面ではプロジェクトマネージャーとして要件定義・開発・コンテンツ制作など様々な交通整理とディレクションを行わせていただき、
運営場面ではSEO・WEB広告を行いながら、メディアとしてのマネタイズ化を進めていました。
その後、スマホゲーム開発にも携わらせていただき、(残念ながらヒットに恵まれることはありませんでしたが)人を楽しませるエンタメ業界の魅力にどんどん引き込まれていきました。
このまま暫くここで働くんだろうなと思っていたんですが、
ある日突然、事態が急変します。
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とある日、私は朝の5時くらいに、私のスマホの着信音で起こされました。
普段は6時までおやすみモードにしてあるのに、何故かこの日は解除されてありました。
電話は東京に住んでいる私の姉からであり、
実家の母が倒れ、救急車に運ばれたという内容でした。
私はすぐに新潟へ向かいました。
病院へ着くと、母はくも膜下出血になったと聞かされます。
その日のうちに手術が行われ、なんとか一命をとりとめることができました。
術後しばらくしてから入院している母のもとを向かいましたが、声をかけても反応がありませんでした。目は開いておりますが、何度呼びかけてもぼーっと前を見ているだけの状態です。悲しくて泣きました。
少し調子が良い日は反応を示してくれましたが、私の名前を間違って呼んでしまう日もありました。
その時は父も心ここにあらずという感じで、日々の暮らしも茫然としているよう感じでした。
そんな状況をみて、居ても立っても居られなくなった私は、新潟に戻ることを決意しました。
なお、母はそこから驚異的な回復を見せ、今では70代にしてスマホの操作を覚えようとするくらいまで元気になっています。本当に良かった!
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次回
うなぎ屋のせがれがデジタルマーケターになるまで② ≪東京→新潟編≫
※2020/2/23更新 (ようやく続きが書けた。。。)