なぜ、生成AI時代なのか
このタイトルの答えは、既にあちこちで語られつくされていると言うか、新たな技術が登場する度に上書きされていると言うか、そんな状況だろうと思っています。
ただ、学校教育の文脈で考えたとき、「なぜ、生成AI時代なのか」という問いへの答は、産業界や経済界、或いは一般社会の文脈とはまた違った視点で語る必要があるでしょう。自分なりの答を導き出すきっかけになるような機会が続きましたので、今の時点で思うことを書いてみます。
安易な導入、安易な批判
前の記事で書きましたが、10月18日(金)に「初等中等教育段階における生成AIの利活用に関する検討会議」の第5回が開催されました。
席上、文科省から示された資料「ガイドラインの改訂に向けた検討のポイント」に以下のような文言があります。
はい、そういうリスクを指摘する方はいらっしゃいます。いらっしゃいますが、そういう批判をされる方こそ「安易に」批判をしているのではないかな、というのが私の捉えです。
「子供たちが学習すべき内容に対して、楽をして答えを求める」「答えを出す AI に依存することで自らの創造性が低下する」「AIの出力を鵜吞みにしてしまい批判的な思考力が低下する」といった場面、私はこれまでの生成AIを活用した授業で見たことがありません。
なぜか。そういったことがリスクとして顕在化するのは、要は「答えを出せればそれでいい」という授業をしている場合ではないでしょうか。そういった授業を展開しているのであれば、生成AIの存在は確かに脅威でしょう。別の言い方をすれば、「知識注入」「記憶重視」といった極めて古い教育観・学習観に立って教育を考える向きにとっては、生成AIは大きな脅威になるということです。
真っ当な導入、真っ当な授業
それに対して現行指導要領では冒頭でどんなことが書かれているでしょうか。社会の変化や人工知能の登場による変化を指摘し、その上で学校教育に求められていることが以下のように示されています。
この発想に立って我々が取り組んでいるのが「主体的・対話的で深い学び」の視点からの授業改善なわけです。これに真剣に取り組んでいる限りにおいて、先のリスクが顕在化することはないでしょう。
生成AIがどのような答えを出してきたとしても,それを批判的に捉えて自らの考えを深める。生成AIの答えがハルシネーションを含むものであってもそうでなくても、冷静に受け止めて学習に活かしていく。そういう方向に進むのではないでしょうか。
「安易な導入」というのがあるのだとすれば、それと対象的な「真っ当な導入」は、そうした方向を目指すものでしょう。そこにおいて生成AIは「課題をさぼるためのツール」ではなく「批判的な思考力を育成するツール」であったり「自らの創造性を高めるツール」であったりするはずです。
問い直さねばならないこと
10月19日(土)に岡山で開催された「第8回教育セミナー in おかやま」に登壇させていただきました。コーディネーターが赤堀侃司先生で、スピーカーが私と安藤昇さんという、自分で言うのもなんですがなかなかの重量級な組み合わせ。打ち合わせほぼゼロだったのですが(笑)、赤堀先生が私と安藤さんが話した内容でひっかかったことをその場で突っ込んでくださるのが非常に刺激的かつ話しやすくて充実したセッションになりました。
私の時間では、前に紹介したこの実践について発表させてもらいました。
ざっくり書くと「AIに意見文を作らせる→生成された意見文を読む→生成された意見文をWordに貼り[校閲]-[変更履歴の記録]をOn→加筆修正→修正が終わったものをTeamsの課題機能で提出」という学習です。
恐らくこの実践に対しては「意見文を書く、という学習がそんなAIの力を借りたものでいいのか」という批判があるのではないかと思っています、と話したら、会場の中には複雑な表情を浮かべている方がチラホラ。そこへ重ねて問います。
「大人だったら面倒な仕事に生成AIを使ってパッと片付けたら『働き方改革の実現』になりますよね? なぜ子どもはいけないのですか? 子どもは聞きますよ。『生成AIが翻訳してくれるのに、なぜ英語を学ぶのですか? 要約だってパッとしてくれるのになぜ要約の手法を学ばねばならないのですか? 先生だって英語の論文を生成AIに翻訳と要約させて読んでるって言っていたじゃないですか!』って。どう答えますか?」
そう、我々は今、これまでは当たり前だと考えられてきたこと、「なぜ、これを学ばねばならないのか」ということをきちんと答えられなければならない時代に入っているのです。
「将来、役に立つからだよ」
「今、生成AIが役に立ってくれるから別に勉強しなくていいじゃないですか」
「就職に有利だぞ」
「生成AIにできることができても有利になるとは思えません」
「AIはハルシネーションを起こすからそれを見抜くことができなければ駄目だ」
「OpenAIが発表したSwarmのようにAI同士が参照し合ってハルシネーションを潰していく技術を使った方が確実だと思います」
「学習指導要領に書いてあるのだから学ばねば駄目だ!」
「生成AI登場以前に書かれた学習指導要領に書いてあるからと言われても納得できません」
「そうはいっても受験では必要だぞ」
「学校教育は受験のためにあるのですか?」
もちろん、こんな陳腐な答を返そうとする方は、少なくとも私の記事を読む方の中にはいないでしょう。
しかし、「生成AIができてしまうのに、なぜ学ばなければならないのか」という問いが我々や子どもたちの前に立ちはだかるのは間違いありません。その時、我々は真剣に「これまでは当たり前に◯◯を教えてきたけれど、これを教え続けることは本当に価値のあることなのだろうか」と問わねばならないでしょう。
いや、もう問い直さねばならない時は来ているのです。そういう段階に来ている今、この時代を教育の文脈においても「生成AI時代」と呼ぶことは、実に妥当なことではないでしょうか。