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監視される日常

 大学院でボランティアの研究をしていた私は、とあるNGO団体の活動についての研究をするためにミャンマーへと、フィールドワークに行くことにした。

大学院の教授のツテで日本のNGO団体が運営する日本語学校でお手伝いをさせていただきながらボランティア活動についての研究をさせてもらえることになったのだ。

しかし寸前になって、一緒に行く予定だった友達が家庭の事情で行けなくなり、私はたったひとりでそこに行くことになった。1人で海外に行くこと自体は初めてでもなかったが、行ったことのない国に1人で、しかも長期滞在するのだからとても不安だ。

 滞在ビザも取得し、いよいよ出国のタイミングで、私はミャンマー語を2語しか覚えていない。
読めない。書けない。聞いてもわからない。
言えるのは「こんにちは」と「ありがとう」だけ。

それでもなんとかなると思っていたし、実際になんとかなったのだから、世の中不思議である。

 日本からミャンマーに行く直行便が当時取れなかったため、タイで一度トランジットし、当地首都であったヤンゴンに到着した。
空港から外へ出ると、かいだことのない香辛料の匂いが鼻をついたことを今でも覚えている。

そこからは迎えに来てくれていた日本人のスタッフと一緒に日本語学校のある都市へと電車で向かうことになった。

 その道中の電車は、電車というより汽車という言葉が似合っていた。
およそ日本では見かけたことがない、「明治や大正に走っていたのではないか」と思うぐらいの乗り物だった。
古めかしい作り、座面は硬くて、座っていても揺れでお尻が痛い。それでも個室だったので、良かった。
一般の席はぎゅうぎゅうの人や物で溢れかえっていて、とても座れるような状況ではなかった。現地の人は皆、立ったまま、決して心地いいとは言えない揺れに耐えていた。

車窓から見えるのは、濃い緑色の木々、木造平屋建ての家、時折動物たち。

日本とは違う、熱烈に照りつけてくる太陽、電車内の金属のニオイ、湿り気を帯びた空気、何かわからないスパイスの香りが風に乗って入ってくる。

途中駅で停まるたびに、開けっ放しの窓に物売りの少年少女が集まってくる。あれこれとひっきりなしに商品を勧めてくる。

私は一緒にいた日本人スタッフに「何か買った方がいいのか」と尋ねた。スタッフは「キリがないからやめるように」と冷たく言った。

少年たちは何を売っていたのか、私にはもうわからないが、小学生低学年ぐらいの子達が、あんなに暑い日に停車する電車に群がり、窓越しに必死にモノを売っていた姿は今も私の脳裏に刻まれている。
彼らは今も元気なのだろうか。

 電車内では日本人スタッフから多くのことを教えてもらった。まず言ってはいけない言葉があること。「特に関西人は気をつけて」と念には念を入れて、何度も何度も言われた。

その言葉は「あ、そうや」である。

ミャンマー語のこの言葉は「政府」を意味する。そのため、この言葉を使っている外国人は監視、通報対象になるというのだ。
一般市民がこの言葉を使っている外国人を通報すれば、その外国人は拘束され、通報した一般市民は軍から膨大な額の褒賞金がもらえる。
それを聞いて私は自分の中で「あそうや」を即時封印したのはいうまでもない。

スタッフが電車の中でそのようなことを教えてくれたのにも訳があった。日本語学校の建物についてしまうと、現地のミャンマー人がたくさんいる。いつ、どこで誰が何を聞いているかわからない。しかし、この電車の中という特異な空間はガタガタと大きな音を電車自身が発しているため、会話の内容を別の部屋の人に聞かれる危険性がとても少ない。
ミャンマーに到着して早々に、こんな事を言われたので、とてもびっくりしたが、要はその言葉さえ言わなければいいわけだ。
そして、あとは怪しい行動を取らない。

 他にもミャンマー人は蚊に刺されないとか、いろんなことを聞いたが自分が生活をして行く上で一番気にかけたのは、この言葉だった。


 ようやく日本語学校に到着すると、入り口の近くに何やら座っている人達がいっぱいいた。何をするわけでもなく、「座っている」のだ。
毎日そこにただ座っている。「彼らは何をしているのか?」私は疑問に思っていた。

そう、彼らは私たち日本人を監視しているのだ。
そんな監視された生活をしたことがない私は、当初ドキドキしながら過ごすことになった。


そして一週間ほどたったある日、急にひらめいたのだ。


 彼らは私を監視している。
言い換えると、彼らは私を常に見ているのだ。
私が一人で買い物に行っても、彼らのうちの誰かがついてきていた。
今から思うと、あれは輪番制だったのだろうか?

少し話が逸れてしまったが、つまり、常についてくる彼らは、言い換えると頼もしいボディーガードなのではないだろうか?という思考に至ったのだ。

もし私に何かがあれば、その人たちがすぐに日本語学校に連絡をするだろう。それもきっと、謝礼目当てで。
日本人の女性が1人でフラフラしていても、誰かが見てくれているのだ。
それはある意味安全だ。
軍に通報される危険性を伴っていても、別に何も怪しいことをするわけではない。ただ純粋に研究をしに来ただけなのだから。
まぁ、研究が怪しいと言われてしまったら元も子もないのだが。

次第にそう考えるようになった。開き直りと言われればそうなのかもしれない。
そして彼らをボディーガード(仮)と名付けることとした。

 日本語学校に居る現地スタッフと仲良くなるにつれて、ボディーガード(仮)とも通訳をしてもらうことができるようになった。
毎日座っている彼らともコミュニケーションをとれるようになったのだ。私のボディーカード(仮)をしている彼らの仕事は外国人を通報することだった。しかもそれで生計を立てているという。どうやら生計が立つほど褒賞金額は多いらしい。
そんなに頻繁に通報しているのだろうか・・・?とちょっぴり怖くもなった。

しかし、そんなこと言われても通報されるわけにはいかない。
私はあの言葉を胸に封印し、つい口をついてしまいそうな衝動にあらがった。


 次第に彼らと仲良くなり、買い物では、ついてきているボディーガード(仮)が値切り交渉をしてくれたり、荷物持ちをしてくれる様になった。もうこの段階では監視されていることすら忘れそうになっていた。それこそ24時間監視はされていたが、ずいぶん彼らと親しくなり、彼らと過ごすことも楽しかった。

それでも滞在中、私に届く手紙は全部検閲されていたし、国際電話は謎の雑音が入りまくっていたので誰かに聞かれていたのだろう。
そういう不気味な気持ち悪さもあるにはあったが、ボディーガード(仮)との日々は「おもしろい」という感情のほうが強く残っている。

彼らの仕事は、今もあるのだろうか。

十年以上前の話だが、今ミャンマーはどうなのだろうと時折思う。

あなたも、もし、行かれることがあれば、ことばには気をつけて。
気づけばボディーガード(仮)があなたを見守ってくれているかもしれない。

私のボディーガード(仮)たちが、今も平和に暮らしていることを願っている。
願わくば、別の仕事で・・・。


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