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彩りと日常 第一話

【あらすじ】
学校現場は教師と児童、生徒だけで構成されているわけではない。

現場を支える多くの大人があってこそ、成り立っている。

学校を舞台とした話は数多くあるが、スポットがなかなか当たらない大人たちがいる。彼らにスポットライトをあてることで、違う角度から、「学校という日常」を感じられる短編4部作

第一話 「マーブルオレンジ」


16時半になると、はじめる仕事がある。
校舎の見回りと、カギ閉めだ。

用務員室の机の引き出しから、ジャラリとくっついているカギのかたまりを取り出す。
「今日も重いな」
ずっしりとしたそれを手に感じながら、部屋を出るためにドアに手をかけた。

これから職員室にいる教頭に、校内の鍵閉めにまわることを報告しなくてはいけない。

「はぁ……」

面倒くさく感じ、自然とため息が出る。
しかしながら、開始と終了報告を義務付けられているので、致し方ない。

何より、この仕事が終わると退勤できる。
この不毛な仕事を終わらせて、さっさと帰ろう。
なんでこんな誰でもできるような仕事をしなくてはならないのだろう。

そんな思いを断ち切るように、用務員室のカギをガチャリと閉めた。

教頭への開始報告はいつも簡素だ。
「今から教室をまわってきます」
男はいつもと同じ言葉を投げる。

教頭からも、いつもと同じ返事が来るのかと思っていた。
だが……、意外な言葉が返ってきた。

「今日はほとんどの部活動が休みだから、いつもよりも楽かもしれません」
『いつもより楽かもしれない』という言葉に、ほんの少し心がおどる。

帰ったら、何をしようか。

……ふと、帰ったところで何もすることがないことに気づく。
「早く帰ってもなぁ……」
男は少し肩を落とした。

オレンジ色にも黄色にも取れる夕日が、廊下に差し込む。
ふわりとどこからか入ってくる風に、懐かしさを感じるにおいを見つけた。
きっとどこかの家の味噌汁のにおいだ。
ほのかに感じる出汁の香り。
そんなにおいと、風が色めく廊下は、さながらマーブル模様を創っているようだ。

男がのそりのそりと歩く後ろには、長い影がのびていた。
まるで男の人生の軌跡のように、長く、細く。

カキーーーン……

あぁ、遠くでバットにボールが当たる音が聞こえる。

「……あの時もそうだったな……」
男は歯を「ギリっ」と喰い縛り、2年前の夏に思いをめぐらせた。



男の妻は、野球観戦するのが好きだった。
スポーツを嗜むようなアクティブな性格ではない妻だが、野球だけは大好きだった。

特に夏の高校野球は食い入るように見ていた。
男もかつては野球をしていたこともあり、二人のささやかな趣味となっていた。

2年前のあの蒸し暑い夏の日、男と妻は高校野球の決勝戦を見に行っていた。
毎年テレビで見ているあの球場に、妻が見に行きたいと言ったのだ。
定年退職したばかりで、時間をどう使って良いのかわからなかった男は、妻の要望を叶えるため二つ返事で見に行くことを決めた。

男の住んでいるところから野球場は少し遠い。
当日の天気予報は真夏日であることから、熱中症対策も怠らず、首元には保冷タオル、塩分を含んだドリンクも大量に持参し、日傘、サングラス、と考えられるものは全て準備した。

野球観戦当日は、セミすら鳴かない炎天下だった。
男と妻の座っているスタジアムの観戦席には屋根などない。
灼熱という言葉が似合いすぎるほど似合っている。
そんな天気だった。
男は何度も、何度も、雲ひとつない青空に非難の目を向けた。

「暑すぎる」

滴る汗が目に入り、痛みを覚えながらも太陽に非難の目を向ける。

男や妻がどれだけ野球観戦が好きだといっても、暑さには敵わない。
ましてや、定年退職したばかりのいい歳の夫婦だ。

若い頃の体力はない。
ほんの少しの距離を急いで歩いただけで、すぐに息が上がるほどの低落ぶりだ。
だからこそ、熱中症対策も万全にしてきた。


そのはずだった。

カキーーーン……

ちょうど3回表、満塁でホームランが出た。

「ほら、ホームランだ! 4点入る! こっちのチームが優勝するに違い・・な・・」

妻の方を振り返り息継ぎをする間もなく、まくしたて、そして息を呑む。

男の隣に座っていた彼女はグッタリと肩を落とし、今にも倒れそうなようすだった。

いつもはほんのりピンク色の頬も、今はその色を失っている。
顔色は青よりも白に近い。
それは人肌の色というより、無機質な陶器に近い、くすんだ白だ。

「おい! 大丈夫か?」
声をかけるも反応がない。
ホームランで盛り上がるスタジアムの中、男は声を上げる。

「すみません! 医務室は……医務室はどこですか?!」

男の言葉は、盛り上がる歓声の中で虚しくかき消されていった。

その後のことを男はあまり覚えていない。
遠くから聞こえた救急車のサイレン、周囲のざわめき、さっきまで灼熱のようだった全身が、自然とガタガタと震え、やがて何も感じなくなった。
さっきまで隣で嬉しそうにしていた妻が、突然倒れているという事実が信じられなかった。

この辺りの記憶は、昔のフィルム映画のコマのように、断片的に残っている。

次に男が覚えているのは、白の空間だ。
目の前の部屋の案内版には、集中治療室とある。
男の隣には、7年ほど前、結婚を機に家を出た息子の姿があった。

妻は・・・妻はどうなった?
なぜ息子が隣にいる?
頭の中をぐるぐると色んな思いが巡り溜まっていく。
身体の震えは、ずっと止まらない。
そんな男を睨むような、冷ややかな目つきの息子が口を開いた。

「もし、母さんが死んだら……許さないからな。
1ヶ月前から調子悪いって言っていた母さんを連れ出したのは、父さんなんだから」

調子が悪い……?

そんなこと、男は知らない。
初耳だった。
妻は男に心配かけまいとして、伝えていなかったのだ。

次に覚えているのは白木の箱に横たわる彼女の姿だった。

色褪せた顔色に似合もしない赤い口紅を塗られている妻を、男は呆然と見ていた。

後から記憶を繋ぎ合わせると、あの野球観戦の時に熱中症になったことが原因だったらしい。

元々の体調不良と相まって、この結果を招いた。
私としては、熱中症には万全の準備をしていたつもりだった。
しかし、予想を上回る暑さと自分たちの体力の無さ、歳の衰えを甘く見積もった結果、妻の体調変化に気づかなかった自分自身に腹が立つ。


男は何もかもが許せなかった。
「なぜ、こうなった……?!」
だがその後悔は、既に遅い……。
男の妻はもう起き上がらない。話せない。笑うことも……。

あのホームランが、あの野球観戦が、最期となったのだ。

妻を送る最後の儀式の最中、ただひたすら後悔の念と自分への苛立ちで男は気が狂いそうだった。

そして苛立ちの追い打ちをかけたのは、息子だった。
マザコンと言ってもいいくらい、妻と息子は、仲が良かった。
男とは元々仲が良くもなかったが、今回のことで、より一層関係が悪化した。

昔からことあるごとに男と息子は、ケンカをし、妻が仲をとりもってきた。
男と息子の間に入っていた妻がいなくなった今、歯止めが効かなくなってしまった。
葬儀の際にも、親族の会食の際にも、目線の一つも合わさず、言葉の一つも交わさなかった。

「なんだよ、あいつ……」
一方的に悪いと責められたこともあり、男は自分から話しかける気にはなかった。
それがより一層、関係を悪化させた。

怒りと後悔を抑えながらの弔問客への男の挨拶は、ひどいものだった。
男は怒りや後悔の感情の渦に翻弄されているうちに、儀式は終了した。

小さな白い箱に白い断片となり収まっている妻と共に家の鍵を開けた。
ドアノブに手をかけ、回し、ドアを開けた瞬間……、猛烈に苦しくなる。

会社勤めをしていた頃、帰宅時間に合わせて妻は、夕ごはんを作っていてくれていた。
ドアを開ければ、夕食の匂いが鼻をついたものだ。
湯気の上がる夕飯を、妻の笑顔を見ながら、毎日、毎日、食べていたのだ。

定年退職してからは、夕食前にドアを開けることはなくなった。
その代わり、妻が夕飯を作るようすを傍で眺め、夕飯を提供してくれることを笑顔で待っていた。

「ただいま」
習慣となっているコトバが口をつく。

モワッと絡みつくような空気だけが、そこにあった。



あれから2年経つ。

男は毎日を無為に過ごしていた。

退職金を食い潰す日々に少し不安を思い始めたタイミングで、知り合いが学校現場での仕事を紹介してくれた。

ただ、それだけだ。

そんなこともあり、今年度から毎日16時半から校舎内を巡回し、鍵を閉めてまわる日々が続いている。
これが日常となった。

いつも通り北校舎1階の教室から回る。
この学校はこの近隣では広く、校舎が北校舎、中校舎、南校舎と3棟あり、それぞれが3階建てだ。

一つのフロアには6教室ほどが横並びであり、その全ての施錠を確認する。
廊下の窓の鍵も合わせて閉めて回る。
この生産性のない仕事を、私はもう半年も繰り返しているのだ。
おかげで、どう歩けば無駄なく施錠できるのか、を考えるようになった。

北校舎1階の施錠を終え、2階に上がり端の教室、廊下の施錠を繰り返す。
先ほどまで男の前方から夕日に照らされていたが、今は男の前に長く細い影が伸びている。

まるで自分のこれからの人生みたいじゃないか。
いまでは、何の楽しみもない……。
黒いかたまりがどんどん細くなっていく。
寝て、起きて、食べて、仕事に行って、同じ日々が繰り返されながら段々と、その要素を減らし、一つずつできなくなるのだろう。

あるいは急に全てが消えるのかもしれない。
そんなことを考えながら、ガチャリと鍵をかける。

稀に教室内の窓が開いていたりするので、それを施錠するために中を確認する。
自分は……毎日、一体何をしているのだろうか。
本当に生産性のかけらもない仕事だ。
やりがいとは程遠い。

「はぁ……」
思わず漏れ出たため息が自分の中の虚無感と共に空中に漂う。

3階についた時、窓からはグラウンドも見え野球部が練習をしていた。
かすかにボールがバットに当たる音も聞こえる。

山際に段々近づく太陽の光が目に刺さる。
若い頃にはもう少し太陽光に対して耐性があったように感じるのだが、こればかりは仕方ないのか。
「これだから、歳を重ねるのは……」
思わず独り言もこぼしながら、次の教室へと向かう。

教室表示は3年1組。
このクラスは、言ってはなんだが施錠が甘い。
じゃらじゃらと手にしている鍵を使い、教室前方のドアを開ける。

前から後ろへと窓のクレッセントの角度を確認しながら、教室内をぐるっと一周すると途中、予想通り開いていた窓を閉めようと手を上げた。

「・・・って・・・・だよ」

外からのもわっとした空気と共に、どこからか女生徒の声がする。
風向きから考えると、隣のクラスからもれてきているようだ。

そもそもこんな時間に生徒がいることは、ほとんどない。
多くの生徒は下校しているか、部活動に励んでいるからだ。
この半年、毎日この仕事をしているこの時間に、生徒に遭遇したのは片手ほど。
その多くが忘れ物を取りに来た子だ。

何をしているのだろう。
私は思わず、聞き耳を立てた。
「・・・くんは、・・・だから・・・」
どうも声の主は1人ではなさそうだ。
声の主は焦ったような、でも勢いを感じる声色で相手に伝えているようすだが、ところどころ聞こえてこない。

どういう状況なのかはさっぱりわからないが、声の主が相手を心配しているようすだけは窺える。

もう少し、はっきり聞きたいという思いが湧き上がったが、ふと自分は何をしているのかという思いも湧き上がり、窓を閉めることにした。
いつも通り、ぐるっと教室内を確認し、先ほど入った教室前方のドアから出ようとする。

廊下に出て、鍵をかける瞬間に、先ほどの声の主の一際大きな声が聞こえてきた。


「そんなに逃げてどうするの?!」

少しの憂いを含んだ声が、廊下にまで聞こえてくる。

「逃げても何もならないよ! 後悔するだけだよ」

私は、鍵を鍵穴から抜く動作のまま硬直した。

かつて妻が、私に対してよく言っていたコトバだった。
特に息子との仲が悪化したときに。

サンオレンジと呼ばれる濃いオレンジの光に照らされ影が伸びている。
鋭角な日差しと共に女生徒のコトバが同時に私の胸を刺したようだった。
痛みを感じながらも、スゥッと大きく息を吸う。
私の耳は姿も見えない、隣の教室の女生徒の一言も聞き逃さないように全神経を集中させる。
彼女のコトバが続く。

「スナオになって、仲直りしたら?」

女生徒の喋り方は妻の口調とよく似ていた。
そうだった、この学校の立っている場所は妻の故郷なのだ。
イントネーションも、最後の「ら」が短音なのも、妻の言い方と似ている。
2年が経過しているので、気がするだけかもしれない。

昔、息子と言い合いになり、お互いに意地を張って、一週間口を聞かなかった。
そのときにも同じことを言われたのではなかっただろうか。


今も私は同じことをしている。


私はあの頃から成長してないのではないだろうか。
2年間もくすぶり続けている。
私は、妻の後押しがないと、息子との関係を修復することもできないのか。

「私は、応援してるよ!早く仲直りしよう?
これ以上こじれる前に。後悔するよ?
いや、もう後悔してるんでしょ?」
女生徒のコトバが濃くなったオレンジ色の夕陽と相交じり心に降ってくるようだ。
男はオレンジのコトバが胸に降り積もる苦しさと温かさを瞬時に体感した。


思わず男は足早に、隣の教室前の廊下を通り過ぎた。
顔を上げれば、女生徒の顔を見られたかもしれない。
でもそうはしなかった。
女生徒は彼の妻ではない。
彼が認めて欲しいのは、妻だけだ。
今の私を妻はどう思うだろう。

男は思う。
妻は、常々、息子と仲良くして欲しいと言っていた。
今の私たちはどうだ?

まだ、顔を上げ、彼女に向かい合うことはできない。
残りのいくつかの教室は廊下側の鍵だけをかけ、足早に職員室へと向かう。

勤務の終了報告をした男は、すぐに学校から飛び出した。

自宅に着くと即座にスマホを取り出し、息子への通話ボタンを押す。

「プルルルル……」


スゥッと大きく息を吸い込み、顔をあげて口を開いた。



第二話「ブラウンベージュ」

第三話「シルバーマジック」

第四話 「Blue flame in my heart」

#創作大賞2024 #お仕事小説部門


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