「殺人の涯(はて)」海野十三
「とうとう妻を殺してしまった」
私は白い液体をかきまわしながら、独り言を言った。
その白い液体は、大きな金属製の桶に入っていた。桶の底は電気の熱で温められている。手を休める暇は少しもない。白い液体は絶えずグルグルと渦を巻いてかきまわされていなければならない。液体は白くなってきたが、もっともっと白くならなければならないのだ。まだまだかきまわし方が足りないのに違いない。私は落ちてきた実験用の白衣の袖を、また肘の上までまくりあげた。
実は、この白い液体の中には、妻の死体が溶けこんでいるのだ。ある三つの薬品を、ある割合に配合し、ある濃度に薄めて、ある温度に保っておくと、人間の身体がいちばん溶けやすくなる。これは長年私が苦労して得た研究の成果だった。
しかし死体を放り込んでも、砂糖が湯に溶けるようにズルズルと簡単には溶けない。長い時間が必要だ。そして充分な注意と忍耐も必要だ。例えば、死体が溶けて濃度がある箇所だけ濃くなり過ぎると、すぐにその部分が変質して不溶解性の新成物を生ずる。そのうえ攪拌のむずかしい技術が必要だ。
「だが、妻を殺す必要は無かった――」
私は先ほどから、払いのけてもまた泉のように湧き上がってくる後悔をどうすることもできなくなった。殺すまでは、どうしても殺さなければ我慢できない妻だったが、こうやって殺してしまうと、殺すほどのことはなかったのだという気がする。その上この死体の始末がとても大変だ。警官が事件に気付いてここへ来るまでには指一本残らず、溶かしてしまわなければならない。気のせいか液体はだんだん白くなって来たようだ。いよいよ充分に溶けてきたらしい。
そのとき、入口をノックする者がいた。
「ちょっと開けて下さい」
私はチェッと舌打ちをした。
(警官だな。――)
もうあと少しというところだ。今ドアを開けられては困る。黙っていよう。
私は液体をかきまわす手を速めた。額から汗がボタボタと落ちて、桶の中に入る。私は顔を横に曲げた。
「どうして開けてくれないのですか、ちょっと開けて下さい」
警官のやつ、いらいらしているぞ。何といっても開けるものか。そしてこの間に、すっかり溶かしてしまわなくちゃ。
「だが、殺さなくてもよかったのに」と私はまた後悔した。
「殺したばっかりに、こんな一所懸命に機械の真似をしなければならない。その上、苦手の警官に顔を合わせなけれならない。なんて損なことを私はやってしまったのだろう!」
そのとき入口がパッと左右に開いた。予想のとおり警官が現れた。ついに入って来たのだ。合鍵で開けたのに違いない。
警官は私のそばに来ると、無言のまま、液体を覗きこんだ。
私はウンウンうなりながら夢中になって白い液体をかきまわした。
警官は何にも言わない。何も言わないと、私の心臓は警官の手に握られているようで無気味だった。液体をかきまわしている腕の動きが、何となく鈍くなるようだ。
液体の表面に触りそうなくらい顔を近づけていた警官がウムとうなった。私はドキンとした。なんだかチラリと赤いものが、液体の中に見えたように思った。だがよく見ると、やはり白い液体が渦を巻いているだけだ。私は平気を装った。
だがその努力は間もなく無駄になってしまった。赤い塊が、チョロチョロと液体の表面に浮き上がって来たのだった。私は慌てて力を入れ、急速にかきまわした。すると意地悪く、強くかきまわせばかきまわすほど、ポクリポクリと赤い塊が数を増やして浮き上ってきた。私は恐怖に真っ青になって、液体をかきまわした。すると今度は、両腕が全く動かなくなってしまった。警官が私の腕をシッカリ押さええてしまったのだった。万事休す!。
「私は妻を殺すつもりは無かったのです。嘘は言いません。本当なのです。私はよくそれを知っています」
私はポロポロ涙を流しながら、警官に訴えた。桶の中には白い液体が生き物のように独りで渦を巻いている。しかしその液体には今、明らかに大きい赤い塊――それは妻の肉の塊だった――がポッカリと浮かんでいた。執念ぶかい肉の塊だった。恐ろしさのあまり、急にめまいがした。そして意気地なくその場に倒れてしまった。しかしなおも私は叫びつづけた。
* * *
「私は妻を殺す気はなかったのです」
「妻を殺す気はなかったのに、とうとう殺してしまった」
私はなおも叫んでいた。
「ホ、ホ、ホ、ホ」
女の笑う声がする。おお、あれはたしかに死んだ妻の笑い声だ!
声のする方を見ると、いつの間にか妻が私と肩を並べて歩いている。
「ホ、ホ、ホ、ホ」
と妻は笑いつづける。
私は急に恥ずかしくなって来た。妻は生きていたのだ。それなのに、「私は妻を殺した」とどなっていたのだ。そして人もあろうに、妻の奴にすっかり聞かれてしまった。
「まあ、よかった」と私は恥も外聞も忘れて妻に話しかけた。「私は、お前を殺したとばかり思っていたよ。お前は生きていてくれて、こんなに嬉しいことはない」
「何を言ってるのよ」と妻はニヤリと笑った。「あんたはあたしを殺したに違いないわ」
「おどかさないでくれよ。いま、お前は私のそばにこうやって肩を並べて歩いているじゃないか」
そうは言ったものの、あの嫉妬深い妻がまたしてもそばにへばりついているのかと思うと、私は体の力が一瞬で抜けてしまうように感じたのだった。
「あんたは随分おばかさんね」妻はおかしそうに笑った。
「何故さ」私はムッとした。
「そうよ、おばかさんに違いないわ。いったいあんたはなぜあたしのそばにいるのかよく考えてごらんなさい。あたしはあんたに殺されてしまったのよ。死んだ人間なのよ。その死んだ人間とあんたは肩を並べて歩いているんじゃないの。どうして死んだ人間と並んで歩いて行けると思う?そんなことが出来る場合は、たった一つだけよ。それはね、あんたも死んでしまった場合なんだわ。つまりあんたは生きていると思っているらしいけれど、本当はとっくの昔に死んでしまっているのよ。妻殺しの罪で死刑になったんじゃありませんか。ホ、ホ、ホ、ホ」
妻の笑い声が終わるか終わらないうちに、今まで歩いていたと思った野原の景色が急に薄くなって、いつの間にかあたりには真白の雲が渦を巻いていた。確かにそれは、あの世の風景に違いなかった。
私は恐怖のあまりその場に立ちすくんだ。
――ある夜の夢より――
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