ある晴れた日に
気づいた。
私は大切なことに気づいた。
もっとちゃんと言うと、ずっと前から気づいていたけど、見てみぬふりをしていた。
今回は、気づいてしまった「それ」について、私の思うところを話そうと思う。
結論から言おう。
私が気がついたのは、端的に言うと「今を生きている感覚」だ。
自分本来のペースを取り戻し、今しかない今を生きていく…そんなイメージである。
今の世の中は、あまりにもスマートフォンに支配されている。
特に見たいものもないのに、ついスマートフォンを手に取ってしまう。
なんとなく暇だから、面白いものを発見できそうだから、YouTubeを開き、Xで呟き、Instagramで他人のキラキラした日常を見せつけられてダメージをくらうのだ。
そんなのはもう、やめよう。
先日の仕事休みに、私はトレーニング施設へ出向いた。
その時の私はなんとなく音楽がうるさいと感じて、イヤホンをせずにエアロバイクを漕いでみた。
するとどうだろう、なんだか頭の中がすっきりとして、考え事でいっぱいだった頭が整理整頓されていくようである。
さらにはワクワクするようなアイデアも浮かび、じわじわとポジティブな気持ちになっていく。
それならばとジョギングする際も、音楽もラジオも何も聞かずに走ってみた。
やっぱり、なんか良い感じだ。
自分と、周りの人たちの足音、呼吸の音。
平日の夕方で人が少なく静かだったこともあり、なんだかすごく爽快で、気持ちが良かった。
スマートフォンからもっと離れてみよう、そう思った。
私は元々、SNSはLINEとnoteとInstagramだけしか使っていない。
YouTubeやXは、観たい時だけダウンロードしている。
さらに夜8時以降は極力スマートフォンから離れるようにしていたし、SNSも自分の見たいものだけを見るようにしていた。
けれど、それでもスマートフォンの誘惑はとてつもなく強い。
仕事から疲れて帰ってきて、本を読む気力さえない時、手っ取り早く楽しい気分になるには…。
そう、これこそがYouTubeをはじめとするSNSをエンドレスに見続ける時間の始まりだ。
スマートフォンは、次から次へと、私のための娯楽を提供してくれる。
それは良くも悪くも、である。
際限なく時間を溶かしてしまい、その割に得たものは何もないような気がする。
数秒ほどしか目を通さないホームページやツイート、途中で視聴をやめたり、飛ばし飛ばし見る動画コンテンツ…。
娯楽が提供されるスピードが早すぎて、消化しきれていないのに、次から次へと供給されていく。
情報量が多すぎて、あれもこれも気になってしまう。
頭の中が余分な、不要な情報たちで溢れていく。
そうしてなんだか疲れが取れないまま、淡々と流されるように日々を過ごしてしまうのだ。
そんなのは金輪際、御免だ。
私は、しっかりと目的を持ってスマートフォンを触ることに決めた。
LINEを返すため。
Instagramにイラストを投稿するため。
noteを更新するため。
写真を撮るため、電話するため、バスの時間を調べるため…。
きちんと目的を持てば、スマートフォンはとても便利な機械だ。
あまりに便利になりすぎて、余分な機能が多すぎて、私たちはスマートフォンにのみこまれている。
トレーニング施設での大きな気づきによって、私の生活は変化しつつある。
意味も無くスマートフォンをいじるのをやめた。
言ってしまえばただそれだけなのであるが、感覚としてはかなりの変化を感じている。
暇な時間、手持ち無沙汰な時間というものは、ある種苦痛だ。
しかしながら、その苦痛を受け入れてしまえたなら、新たな境地へ辿り着くことができる気がする。
特に何かをすることもなくボーッとする時間はとても大切だと、とある精神科医は語っていた。
普段使われていない部分の脳みそが、活性化するのだという。
日々膨大な情報が取り込まれる今を生きる私たちにとって、ニュートラルな状態に戻る時間は必要不可欠なのではないかと、改めて思った。
集中して本を読んだり、じっくり音楽を聴いたり、歩くこと自体に集中して散歩したり、そういうことが楽しいと、より思えるようになってきた。
身体の感覚に意識を向けて、深い呼吸をする。
広くて深い、思考の時間をたっぷりとってやる。
スマートフォンではなく、紙に思ったこと、考えたことを書き出す。
何もせず、部屋に座り込んでぼーっとする。
初めは、居心地が悪くて不快かもしれない。
スマートフォンという手っ取り早い娯楽から自ら離れることは、時代を逆行しているような感覚に陥る。
しかし絶対に間違ってはいない。
私はそう確信している。
2025年はスマートフォンとの付き合い方を改め、より豊かな人生を生きられたらいいと、そんな風に思う。