鈴木忠平著『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたか』を読んだ。すばらしい本だ。おすすめします。
鈴木忠平著 『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』を読んだ。すばらしい本だった。なぜ、落合が「わがままだ」とか、「オレ流」とか言われて、嫌われてきたのかよくわかった。あたりまえのことをあたりまえに言ってきたからだ。つまり、「変にものわかりがよくなく、いい子ちゃんを演じること」を拒否して、自分を貫いた生き方をしてきたからだ。
このことは、わたしの生き方にも通ずるものがある。そのスケールの大きさを比べると、気恥ずかしい限りだが・・・。全12章の中で最も落合の生き方を象徴的に表している「第12章」を紹介したい。
「第12章 荒木雅博 内面に生まれたもの」
私はペンを握ったまま呆然としていた。完全にアウトだと思われたタイミングをセーフにしてしまったことへの驚きもあったが、荒木から発散されているものに衝撃を受けていた。これが落合のチームなのか?荒木が見せた走塁は、落合がこのチームから排除したものだった。
「俺は、たまにとんでもなく大きな仕事をする選手より、こっちが想定した範囲のことを毎日できる選手を使う。それがレギュラーってもんだろう。 落合はリスクや不確実性をゲームから取り除いた。それが勝つために最も合理的な方法だと考えたからだ。指揮官の哲学は選手たちにも浸透し、ギャンブル的な暴走や怪我の怖れがあるヘッドスライディングは、この八年間ほとんど見たことがなかった。
憑かれたような眼でホームヘ突進した荒木を見ながら、私は確信した。
このチームは変わったのだ・・・。
そして変質のきっかけは、落合の退任であるように思えた。
前日、逆転優勝をかけた四連戦の直前に監督交代を知らされたチームはヤクルトに勝った。選手もスタッフも感情の揺れを見せることなく、淡々と自らの役割をこなしていた。
当の落合も試合後のインタビュールームに現れると番記者たちを前に、「ナゴヤドームの野球だったな」と普段と変わらない問わず詰りを残して、その場を去ろうとした。
慌てた記者たちに呼び止められ、退任について問われると、ああ、そのことかというような顔で後ろを振り返り、やはりひと言で終わらせた。
「契約書通り。この世界はそういう世界だ」
外形的には落合が解任される前と後でチームぱ何も変わっていないように見えた。
だが、選手たちの内面に触れてみると、彼らのなかに何かが生まれているのがわかった。
ロッカールームのボスである谷繁元信が釈然としない表情で言った。
「監督が代わるというのは、この世界よくあることだけど・・・俺ぱチームが弱くなるのは嫌なんだ」
野手のなかで最年長の正捕手はこれまで何度となく落合とぶつかってきた。何の説明もなく突然ベンチに下げられ、怒りをあらわにしたこともあった。築き上げた実績の上に腰掛けようとするたび、その椅子を取り上げられ、プライドの横つ面を張られ、翻弄されてきた。その谷繁が自分に投げかけるように「弱くなるのは嫌なんだ」と語ったことが私の胸に残っていた。
4番バッターのトニー・ブランコは通訳の桂川昇に言ったという。
「オチアイサンがやめるのか? なぜだ? モリサンもいなくなるのか?それなら俺は来年、他のチームにいった方がいいのか?」
表には出さなかったが、各選手がそれぞれの思いを抱えていることが伝わってきた。そんな中でも、とりわけ秘めたものを感じさせたのが荒木だった。
「僕らは、どんな状況でも自分のために自分の仕事をやるだけ。ずっと監督から、そう言われてきましたから」
退任発表の後、報道陣に囲まれた荒木は静かに言った。いつも繊細に質問者の顔色をうかがうはずの彼の視線が、そのときは宙の一点だけを睨んでいた。「でも・・・なんでやめるのかな? なんで今なのかな? とは思います」私は、落合の退任について語る荒木が、これまでと別の人間のように見えた。
チーム内においても、プロ野球という世界においても、荒木は異質な選手だった。自分への揺るぎない確信を感じさせる者たちばかりの中で、荒木は心の揺れが透けて見えたからだ。どれだけ数字を積み上げ、名手と讃えられるようになっても、根底では確信を得られていないようだった。
落合はそんな荒木を見て、さも愉快そうに笑ったことがある。
「珍しい奴だよ。自分を過大評価する人間ばかりのこの世界で、あいつは自分を過小評価するんだからな」
そうと知りながら、右肩に痛みと不安を抱える荒木をショートヘコンバートした。
私には落合の意図がわからなかった。なぜかと問うてみても、落合は説明しようとはしなかった。
「俺と他の人間とじやあ見ているところが違う。わかりっこねえよ」
そうやって意味ありげな言葉を断片的に残すだけだった。
確かに荒木をレギュラーにしたのは落合である。その一方で築き上げたものを失う地獄へと突き落としたのもまた落合だった。荒本はその挟間で揺れていた。この数年の彼は、もうほとんど限界のように見えた。
ナイトゲームの後、時計の針が目付をまたぎ、夜が底に沈んでいく時刻に私の携帯電話が嶋ることがあった。荒木からだった。
「今さ、本を読んでいて、いい言葉を見つけたんだ」
荒木は大抵、こちらの問いを待たずに話し始めた。
「千利休の言葉でさ、一より習い十を知り、十からかえるもとのその一つていうのがあるんだ。これ、今の俺にぴったりだと思わないか?」
自分に、言い聞かせるような口調だった。エラーを犯した夜、ひとり眠れず葛藤しているのがわかった。
「監督はさ・・・心は技術で補えるって言うんだよ。不安になるってことは技術が足りないんだって・・・。それはつまり、俺にもとの一に戻れって言っているのかな?」 同じ1977年に生まれた私は時折、荒本に自分を重ねることがあった。彼もまた自分と、自分か生まれた世界との間に確信が持てず、迷い続けているように見えたからだ。
ところが今、その荒木から揺らぎが消えた。落合が去ると決まった瞬間から視線は一点を見つめるようになった。時を止めたようなヘッドスライディングには、恐れや迷いが見当たらなかった。
球審が両手を広げた瞬間に荒木は何かを叫んだ。ベンチから何人かの選手が飛び出してきた。感情を排してきたはずの男たちから、かつてない熱が発散されていた。このチームは変わった。乾いた繋がりだったはずの落合の退任を境に、内側に何かが生まれたのだ。
荒本の変貌がそれを象徴していた。2時間59分の濃密な駆け引きの末に、試合は終わった。荒木はスタンドから降り注ぐ拍手が、自分の背中に向けられていることに気づいた。
あのヘッドスライディングは決勝点になった。それだけでなく、人々の心を動かしていた。ただ自分ではほとんど無意識のまま、衝動に従っただけだった。
マウンドに集まったチームメイトと勝利のタッチを交わし、一塁側のベンチヘと引き上げていく。そこには落合が待っていた。いつものように能面を崩さないまま一人一人と握手を交わしていた。
荒木はアンツーカーの上がついた自分のユニホームを見て、身を固くした。その汚れは落合に禁じられたヘッドスライディングによるものだったからだ。
後から考えれば危険なプレーだった。ひとつ間違えば明日からゲームに出られなくなるかもしれなかった。そんなリスクを冒した自分に、落合は何と言うだろうか・・・。荒木は恐る恐る指揮官の眼を見た。すると落合は右手を差し伸べて、こう言った。
「大丈夫か」
荒木は、落合が選手にそんな言葉をかけたのを初めて聞いた。
「で、お前は俺に何を訊くんだ?」
落合は何かに陶酔したような顔で言った。
私はまず、この現実離れした戦いについて訊いた。一体、内部で何か起こったのか。
落合はフッと小さく笑った。
「確かに滅多に見られるもんじゃない・・・。まあ、もし、あいつらに火をつけたものがあったとすれば・・・」
そう言うと、二小節分くらいの間をおいて話し始めた。「まだ俺の退任が発表される前、ジャイアンツ戦に負けただろう? あのとき、球団のトップがおかしな動きをしたっていう噂が出たんだ」
落合の眼鏡の奥が一瞬、光ったように見えた。
その噂は私も耳にしていた。
数日前、球場内のコンコースとグラウンドを繋ぐ薄暗いトンネルのような通路の片隅で、あるスタッフが声を潜めて言ったのだ。
「知ってるか? 巨人戦に負けた後に、社長がガッツポーズしたらしいぞ・・・」
私はそれが裏方スタッフの問だけの小さな噂話だと思っていたが、すでにチーム内部に浸透し、落合のところまで届いていたのだ。
落合は小さな黒い眼の奥を光らせたまま、続けた。
「勝つために練習して、長いこと休みなしでやってきて、なんで負けてガッツポーズされるんだ?選手からすれば、俺たち勝っちやいけないのかよと思うだろうな。その後、俺の退任が発表された。それからだよ、あいつらに火がついたのは」チームが敗れたにもかかわらず球団社長がガッツポーズをした。もし、それが本当ならば、そこから透けて見えるのは、優勝が絶望的になったことを理由に落合との契約を打ち切るという反落合派のシナリオである。
落合はその行為に対する反骨心が、現実離れした戦いの動力源になったというのだ。
「あんた、嫌われたんだろうねえ」
室内の沈黙を破るように、隣にいた夫人が笑った。その声につられて落合も笑った。
だが私は笑えなかった。微かに戦慄していた。落合という人物の根源を目の当たりにした思いだった。
理解されず認められないことも、怖れられ嫌われることも、落合は生きる力にするのだ。万人の流れに依らず、自らの価値観だけで道を選ぶ者はそうするより他にないのだろう。
監督としての八年間だけではない。野球選手としてバッターとして、おそらくは人間としても、そうやって生きてきた。血肉にまで染み込んだその反骨の性が、落合を落合たらしめているような気がした。
そして私を震えさせたのは、これまで落合のものだけだったその性が集団に伝播していることだった。
いつしか選手たちも孤立することや嫌われることを動力に変えるようになっていた。あの退任発表から突如、彼らの内側に芽生えたものは、おそらくそれだ。
リビングルームの高い天井を見上げると、壁時計の針は午前一時を指していた。朝が来れば、東京へ移動して巨人とのゲームが待っている。 だが落合に時間を気にする素振りぱなかった。相変わらず、もう全てを成し遂げたかのように微笑んでいた。勝利に飽くことのなかった男が、なぜこうも満ち足りているのか。
それが私の次の問いだった。
落合は、今度は深く息をついた。
「荒木のヘッドスライディング」
そう言って探るように私を見た。
「あれを見て、俺が何も感じないと思うか?」
落合の言うプレーはすぐに思い浮かべることができた。私も鮮明に覚えていた。あれは落合の退任が発表された翌日のゲームだった。荒木は二塁ランナーとして、生還は不可能だろうと思われた本塁へ突入し、身を賭したようなダイビングで決勝点をもぎ取った。このチームの変貌を象徴するようなプレーだった。
「あれは選手生命を失いかねないプレーだ。俺が監督になってからずっと禁じてきたことだ。でもな、あいつはそれを知っていながら、自分で判断して自分の責任でやったんだ。あれを見て、ああ、俺はもうあいつらに何かを言う必要はないんだって、そう思ったんだ」
落合は恍惚の表情を浮かべていた。
確かにそうだった。落合はあの日から何も言わなくなった。
「これでいいんじやないか」
「俺は何もしていない。見てるだけ」
ゲーム後のインタビュールームでは、勝っても負けても穏やかにそう言うだけになった。紙面を通じて意味深げなメッセージを発することもなくなった。そんな落合の様子が、私の目には奇異に映っていた。
落合はシャンデリアを見上げると、少し遠い目をした。
「俺がここの監督になったとき、あいつらに何て言ったか知ってるか?」 私は無言で次の言葉を待った。
「球団のため、監督のため、そんなことのために野球をやるな。自分のために野球をやれって、そう言ったんだ。勝敗の責任は俺が取る。お前らは自分の仕事の責任を取れってな」
それぱ落合がこの球団にきてから、少しずつ浸透させていったものだった。かつて血の結束と闘争心と全体主義を打ち出して戦っていた地方球団が、次第に個を確立した者たちの集まりに変わっていった。
そしてあの日、周囲の視線に翻弄され、根源的な自己不信を抱えてきた荒木という選手が、監督の命に反してヘッドスライディングをした。その個人の判断の先に勝利があった。それはある意味で、このチームのゴールだったのではないか。
私はずっと、なぜ落合が勝利のみに執着するのか、勝ち続けた先に何を求めているのかを考えてきたが、今ならわかるような気がした。
落合は荒本のヘッドスライディングと劇的なチームの変化の中に、それを見つけたのだ。
落合の真意を探し続ける荒木が、このことを知ったらどう思うだろうか。
私は煌々と灯りの点るリビングで、そんな想像をした。
「あいつら最初は、この人何を言ってるんだと思っただろうな。俺の言うことは周りの人間の言うこととは違う。例えば、なんで俺が荒木と井端を入れ替えたのか。みんな、わからないって言ってたよな?」
落合は私の胸の内を見透かしたように、問わず語りを続けた。
「俺から見れば、あいつら足でボールを追わなくなったんだ。今までなら届いていた打球を目で判断して、途中で諦めるようになったんだ」
球界最高の二遊間と言われた二人を錆が侵食し始めていた。落合はそう言った。私にはそれがわからなかった。おそらく誰の目にも映らなかったはずだ。だから彼らをコンバートするという落合の決断は理解されなかった。 「あそこに絵があるだろう?」
落合はそう言うと、リビングの壁に掛けられた一枚の絵画を指さした。明るい色彩で、住居らしき建物と田園風景が描かれた水彩画だった。
「俺は選手の動きを一枚の絵にするんだ。毎日、同じ場所から眺めていると頭や手や足が最初にあったところからズレていることがある。そうしたら、その選手の動きはおかしいってことなんだ」
絵画の中の建物や花々を見つめながら、落合は言った。
「どんな選手だって年数を重ねれば、だんだんとズレてくる。人間っていうのはそういうもんだ。ただ荒木だけは、あいつの足の動きだけは、8年間ほとんど変わらなかった」
私は言葉を失っていた。
増え続ける失策数と、蒼白になっていく荒本の表情と、そうした目に見える情報から、なぜ落合は右肩に痛みを抱える選手をショートヘコンバートしたのか? なぜ、あえて地獄に突き落としたのか? 私は怒りにも似た疑問を抱いていた。
だが落合が見ていたのはボールを捕った後ではなく、その前だった。前年の20失策と今年の16失策の裏で、これまでなら外野へ抜けていったはずの打球を荒木が何本阻止したか・・・。記録には記されず、それゆえ目に見えないはずのその数字が落合には見えていたのだ。失策数の増加に反して、チームが優勝するという謎の答えがそこにあった。
つまり落合が見抜いたのは、井端弘和の足の衰えだったのだ。
いつだったか、休日のナゴヤドームで、私の隣にやってきた落合が放った、言葉があった。
「ここから毎日バッターを見ててみな。同じ場所から、同じ人間を兄るんだ。それを毎日続けてはじめて、昨日と今日、そのバッターがどう違うのか、わかるはずだ」
あの言葉の意味がようやくわかった。何より、落合に見られることの怖ろしさが迫ってきた。
「あいつら、俺がいなくなることで初めてわかったんだろうな。契約が全ての世界なんだって。自分で、ひとりで生きていかなくちゃならないんだってことをな。だったら俺はもう何も言う必要ないんだ」
タクトを置いた落合は、指揮者がいなくとも奏でられていく旋律に浸っていた。ずっとこの瞬間を待ち望んでいたかのように、時計の針が2時をまわっても恍惚としていた。