『孤狼の血LEVEL2』を観た
前作もよかったが、LEVEL2では前作で駆け出しの松坂桃李演じる日岡が、2代目「孤狼」を演じているのをテレビ番組で観て、彼の役作りに対する情熱に惹かれて観に行った。予想を裏切ることなく素晴らしい映画だった。暴力団対策法施行前の広島に舞台を設定したから、このような映画を作ることができたのだろうが、前作で役所浩二演じる大上が「東映だから、何をやってもええんじゃ!」とタンカを切っていたのがわかる拳銃とドスと殴り合い全開の素晴らしい作品になったと思う。
主演の松坂桃李だけでなく、日岡をつけねらう上林組組長 鈴木亮平のバイオレンスぶりに度肝を抜かれた。人を殺すときに相手の両目をえぐり取るというやり方は、彼の少年期の父親から受けた暴力から来ているのだろうが鈴木亮平の役作りに掛ける熱量がハンパないものを感じたのは、私だけではないだろう。日岡の愛人役の西野七瀬という女優(元乃木坂46のメンバーらいいが)が、こんな熱い演技をする女優だとは全く知らず、「この女優はだれ?でも、すごい存在感がある」と驚きながら観ていた。弟(チンタ)役の村上虹郎くんの頭をバシバシたたいていてこの女性も役に入れ込んでいることを強く感じた。(そもそも西野七瀬という人を知らなかった。坂系の芸能人なんかと言っては失礼だが、オジサンたちには全くわからない)弟役の村上虹郎もこれまでの中で最高の演技をしていたのではないだろうか。
Aーsutudio+で、松坂桃李が言っていたが、撮影しているときは温厚な顔をしていた白石和彌監督が、すべての撮影が終了した時に眼から涙がボロボロ出て来て、号泣していたそうだ。白石監督のこの作品に賭けた思いの大きさがそのことに表れている。柚月裕子の「孤狼の血」3部作を全部読んだが、今回の映画は第1部と第2部の間を白石監督が創作したオリジナルといっていい話だ。脚本は池上純哉だが・・・。
私は、東映の『県警対組織暴力』は観ていないが、『仁義なき戦い』の前の菅原文太の『人切り与太』や『人切り鉄』『まむしの三兄弟』などの現代やくざシリーズを学生時代に観たことがあるので、その感じを現代風にすると『LEVEL2』になるんだろうなぁぐらいにしか思わなかったが、樋口尚文氏の解説がとても的確に思えたので『LEVEL2』のパンフレットから、ここに引用します。
狼と豚と真人間
『孤狼の血LEVEL2』と白石和彌監督
樋口尚文(映画評論家.映画監督)
東映本社の試写室の控免めな大きさのスクリーンから人物たちがはみ出しできそうな『孤狼の血LEVEL2』を観ながら、これは『仁義の墓場』(1975)と『県警対組織暴力』(1975)の掛け算のような映画だが、なにかがそこから濾過され、さらにかつては混入されていなかったきつい成分が新たに加わっている・・・・いったいそれはなんだろうと考えでいた。そしてまたそこで思わず、白石和彌監督が1960年代前半生まれの自分よりひと回り上の兄世代の手練れではないかという誤解が再発してしまうのだった。なぜならいかに若松孝二に師事した時期があるとはいえ、あれほど若松プロの若く熱き時代をみごとに再現しえた『止められるか、俺たちを』(2018)を撮った!り、東映実録路線の伴走者がついに積年の思いをぶつけて撮ったかのような前作『孤狼の血』(2018)を手がけたり、さすがにそれらの同時代者でなければ獲得しえない匂いと説得力があったからだ。
しかし現実の白石監督はわれわれのこひと回り上どころかぴったり干支一周ぶん若い世代の1974年生まれなのだとある時気づいでしこたま驚いた。そして奇しくも白石監督が生まれたほんの数か月後にたで続けに公開されたのが、くだんの『仁義の墓場』『県警対組織暴力』なのである。ということは、白石監督はこうしたプログラム・ピクチャーの時代とは縁もゆか!}もない完全なるビデオ世代、レンタルビデオ最盛期の映画少年だったということになる。バブル期に乱立したレンタルビデオショップには、それこそわれわれが再見したいと夢見さえした東映やくざ映画や日活ロマンポルノの旧作に始まり、ビデオスルーの珍作奇作、あやしいVシネ作品が百花繚乱で、往年の胡乱で狼雑な名画座のようであった(配信は便利だがあいにく映画の大いなる魅力だったこのいかがわしい場のオーラを伴わない)。
そこでくだんの「濾過されているもの」を思う。それは言うなれば、雰囲気としてのやんちゃさや無駄な思い入れである。これほど暴力的、戦慄的な場面の多い『孤狼の血』二作なのに、ここにあるのはあの威勢良さにまかせた悪役たちの演技を大胆に手持ちカメラをぶん回しで撮るような深作演出とは違って、ひじょうに怜俐な、分析的ともいえる白石監督のまなざしと落ち着いた構築力である。これがもし同時代的な気分を引きずっただけの手練れ仕事では深作のエピゴーネンに終わって、今の時代と切り結ぶこともなかったかもしれない。
深作の時代はひたすらやんちゃでよかった。いや、そうあらねぱ独自の立ち位置は築けなかった。撮影所システムのお定まりの映画作法をひたすら壊すことでなければ、マンネリに堕した興行から去って行った観客を振り向かせることはできなかった。しかし、ゼロ年代にデビューしたビデオ世代の白石監督に課されているのは、デジタルの普及でプロとアマの境界もぼやけ、奔放自在なやんちゃがデフォルトになった映画の残骸のなかで、まともな足腰を備えた上々の興行商品を創らあげることだ。だから、『孤狼の血』シリーズでは画面で描かれるものはやんちゃの極みだが、白石監督のひたぶるに冷静沈着で乱れなき図太い構築力こそが際立つ。役所広司の台詞をもじった前作の惹句「東映じゃけえ、何をしてもええんじゃ」には笑ったが、白石和彌は「何をしてもええ」とは全く思っていないふぜいであって、そのことで「今」の映画となっている。
そしてくだんの「旧作には混入されていなかったきつい成分」だが、これは輸入モノと見た。一貫して落ち着いた白石演出が、しかし暴力描写の残酷、残虐性においては深作作品より格段にえぐさ、どぎつさを見せることがある。にもかかわらずその映像はスタイリッシュで虚構的なトーンであったりするのだが、この間合いはやはり「韓国ノワール」の影響であろう。東映実録路線で最もまがまがしい暴力表現を見せたのは深作作品ではなく、佐藤純彌監督の『実録私設銀座警察』(1973)だと思うが、あれは「淡々と陶芸のろくろを回すのが趣味」と公言する理論的組み立で重視の佐藤監督が淡々ととんでもない暴力表現を消化している怖さであった。それに連なるおっかなさは白石の出世作『凶悪』(2013)でも発揮されていたが、こうした過剰な「露悪」の面白さは「韓国ノワール」譲りだろう。
しかし「露悪」というからには、やはり生来の「やんちゃ」ではなく、どぎつく悪ぶっているということであって、「露悪」のとひとである白石和彌は、あくまで平常心である。『孤狼の血』のメンバーは被災地の復興義援金を寄付したり、業界に率先してパワハラ研修を受けたりして評判だ。そんなメンバーの典型としで白石作品『ひとよ』(2019)ではあれほど忍従の人であった鈴木亮平は『孤狼の血LEVEL2』では『仁義の墓場』の石川力夫も凌駕する残忍凶悪の徒を演じきった。これはあたかも監督の分身のようでもあったが、事ほどさように本作の怖さの源泉は、荒くれどもの血の惨劇の向こうで、いつも穏やかさを絶やさない白石和禰のまなざしなのである。