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勇気とは孤独に耐えること 内田樹 『勇気論』を読む 2

 以前、仲間と思った者たちはみんな「嘘つき」だったし、そこに集まったものたちが心酔していたものは「自分のことだけ気にしてくれないと気が済まない」とんだ自己チュウーだった。
 職場の付き合いは所詮、定年になって職場を去ったら何の関係もなくなった。「おかしいことをおかしい」と言ったら、だれとも付き合はなくなった。読む本もあるし、見たいテレビ番組もたくさんある。身体が元気であればそれで十分だと思う今日この頃だ。
 スマホを持つことを拒否し、クレジットカードも持たない。誰からも電話はかかってこないし、メールも来ない。寂しくないかという人がいるが、すっきりしていてとても快適な毎日だ。こういう日常について、内田さんの『勇気論』におもしろいことが書かれていたので紹介したい。

あとがき

こんにちは。内田樹です。
『勇気論』最後までお読みくださって、ありがとうございます。
 勇気とは何かをめぐって長々と書いてきましたけれども、あまりすわりのよい結論にはたどりつきませんでした。ご海容ください。
 勇気とは「孤立に耐える」ための資質であるということは最初の方で書きました。そして、長々と書いてきて、改めて「孤立に耐える」といぅことが人間にとっては、とでも困難な、しかし重要な営みであるということを思い知りました。

 孤立に耐えるって、たいへんなんです。自分が孤立している時に、「自分ひとりが正しくて、あと全員が間違っている」のか、「他の人たちがまともで、自分ひとりが狂っている」のかを判定することは、本人には権利上できないからです。人間は「神の視点」から世界を見下ろすことはできません。自分が正しいかどうか、それを保証してくれる「上位審級」が存在しない。自分の正しさを自分で基礎づけなければならない。でも、そんなことどうやったらできるのでしょう。
 アルベール・カミュはあるインタビューでこんな言葉を語っています。

「私は理性も体系も十分には信じておりません。私が関心を持つのは、いかに行動すべきか知ることです。より厳密に言えば、神も理性も信じ得ぬ時に、人はどのように行動しうるのかを知ることです。」

 これは問題の本質を見事に衝いた言葉だと思います。上空の「神の視点」「理性の視点」から俯瞰的に「正しいもの」と「正しくないもの」を判別できない時にも、人は決断し、行動しなければならないことがあります。正否の基準が存在しない時に、どう決断したらいいのでしょう。
 カミュはこの問いに答えていません。でも、カミュが実践してきたのは、こういう場合は「しばらくの間、孤立に耐える」ということでした。周りの人の顔色を窺って、「こうすれば支持される」「こうすれば非難される」というようなことを勘案してものごとを決めるということをカミュはしたことがありませんでした。つねに直感に従った。「思わず手が出る」時には「思い」よりも「手」に従った。僕はこれは見事な実践だったと思います。
 もちろん、彼の選択が周囲から受け入れられないということもしばしばありました。その時期、カミュは孤立に耐えました。でも、どんな人間もそれほど長くは孤立に耐えることはできません。時間的な限界があります。いつかは誰かが傍らに立って、一肩に手を置いて、「わかるよ」と言ってくれることを当てにしている。連帯の希望なしに孤立に耐えることはできません。
 
 本文中で「友情。努力・勝利」というスキームが勇気をスポイルしたということを僕は書きましたけれど、もちろん「友情・努力・勝利」はすごく大事なんですよ。ただ、僕が言いたかったのは、そこから始めてはいけない、ということなんです。友情の支援抜きでしばらくの間孤立に耐えられる力がすごく大事だ、ということを申し上げているんです。「必要とあらば永遠に孤立していろ」というような乱暴なことを言っているわけじゃありません。
 人間はどこかで連帯の支えがなければ生きてはいけない。でも、最初のうちはその支えがないことも覚悟しなければいけない。「誰も支持してくれないから、したいことがあるけど、やめる」という判断をしてはいけない。誰も支持してくれなくても、しばらくの間は、孤立に耐える。「しばらくの間」でいいんです。息を止めて水の中を泳ぐようなものです。ことは肺活量の問題なんです。肺活量が少なければ、すぐに水から顔を出して息継ぎをしないといけない。でも、肺活量が多ければ、水没した建物の中で脱出口にたどりつくまで泳ぎ切ることができる。『ポセイドン・アドベンチャー』的、『エイリアン4』的、『バイオハザードⅣ』的状況です。
「あの……どの映画も観てないんですけど」という読者には申し訳ないです。でも、わかりますよね。窮地からの脱出口を探して水中に泳ぎ出す時に、肺の中の酸素の量が半分にまで減ったら、「戻るか進むか」選択しなければならない。元の場所に戻れば、生き延びられるけれど、状況は何も変わらない。先へ進めばどこかで酸欠になって死ぬかも知れないし、危地から抜け出せるかも知れない。命がけの決断です。
 でも、よく考えればわかりますけれど、「肺の中の酸素の量が半分までくる前に」、空気のあるところに抜け出せたら、そんな選択はしなくで済むんです。肺活量が多ければ命がけの決断をしなくても済む。実は、肺活量の多寡によって「生き死にの選択問題」は前景化したり、しなかったりする。程度の差が実は決定的なんです。

 

僕が言いたいのは、「孤立に耐える時間」が短い人と長い人の間には実は程度の差しかない。けれども、それが決定的であることが(しばしば)あるということです。


 だから、孤立に耐えるための「地力」をつけるためには、こつこつと日々努力をしておいた方がいい。孤立に長く耐えられる人は、(主観的には)それほど苦労しないで、「友情・努力・勝利」のフェーズに抜け出すことができるからです。
 ですから、「まず周りの人の共感と理解が必要だ」という考え方に対して、僕は「まず周りの人の共感も理解もない状態にある程度の期間耐えられる力が必要だ」ということを主張しているわけです。

 わかりにくい説明ですみませんね。でも、勇気とは孤立に耐えるための資質だ、という言明を通じて僕が言いたいのは、そういうことなんです。
 だから、周りの人とうまくコミュニケーションが取れないということをあまり気にする必要はないと思います。「コミュニケーション能力」というのは、すでにコミュニケーションの回路ができあがっているところから始めて、自分の言いたいことを滑らかに伝える能力のことではありません。そうではなくて、まだコミュニケーションが成り立たないという状況を初期設定として受け入れて、そこから手立てを尽くして、他者との間にコミュニケーションの回路を立ち上げることです。ゼロベースでコミュニケーションの回路を立ち上げる能力のことを「コミュニケーション能力」と呼ぶ。僕はそう考えています。
 コミュニケーションは「ゼロベース」の仕事なんです。だから、日の前にいる相手と「うまく意思疎通ができない」というのは、別にそれほど困ったことではありません。「そんなの当たり前」なんです。手元にある限られた資源を使いまわして、なんとか相手との間に「橋」を架ければいい。
 主体と他者との間は「地続き」じゃないんです。断絶がある。でも、そこらから持ってきた手持ちの材料で「橋を架ける」ことは可能です。
 僕の哲学上の師であるレヴィナス先生は「私と他者の間には共通の祖国がない」と書いていますけれども、それはあくまで「地続きじゃなぃ」ということであって、「橋を架けることさえできない」ということではない。僕はそう理解しています。

 いま、日本だけでなく、世界のどこでも、「いじめ」やDVゃレイシストゃ民族主義者の暴力が猖獗(しょうけつ)をきわめています。この暴力を駆動しているのは、ぎりぎりまで削ぎ落とすと、「理解も共感もできない他者を前にした時の不快に耐えられない」弱さだと僕は思います。
「他者の他者性に耐えられない」といぅのは、「孤立に耐えられない」のと同じことです。暴力をふるう人たちは、他者を「理解すること」「共感すること」にあまりに性急なんです。
 それは簡単に手に入るものだと思っている(そんな訳ないのに)。だから、すぐに「理解できない」「共感できない」と決めつける。肺活量が足りないので、水の中に泳ぎ出すとすぐに「やっぱリダメ」と言って元の場所に戻ってくる人と同じです。「自分が自分であることに釘付けにされている」といぅ言い方をレヴィナス先生はしますけれど、それは実践的には「肺活量が足りない」といぅことなんです。
 孤立に耐えることのできる人は他者の他者性に耐えることができる。理解も共感もできない他者を前にした時に、それを「人間ではない」とか「忌まわしいもの」とかいうふうにラベルを貼って分類して、処理することを自制して、しばらくの間の「判断保留」に耐えることができる。

 人間の暴力を駆動しているのは「何だかわからないもの」に対するこの嫌悪と恐怖なんです。あらゆる戦争も、差別も、ジェノサイドも、起源までたどると、「他者が他者であることの不快」に耐えられない人間の弱さにたどりつきます。
 勇気はこの弱さとまっすぐに向き合い、自分を少しずつ強くするための足場です。他者が他者であることに耐えることのできる力です。この力を僕は勇気と呼びたいと思っているのです。

 勘違いして欲しくないのですが、「孤立に耐える」というのは、ただ「我慢する」という意味ではありません。もっと向目的な、もっと希望に満ちたものです。
 この本の最初の方に「連帯を求めて孤立を恐れず」というスローガンが制年代の終わりに学生たちに強い情緒的反応を起こしたということを書きました。改めて書き写してみても、この言葉はことの本質をみごとに一言で言い切っていると感じます。
 人は誰でも連帯を求めています。でも、なかなか連帯できる相手が見つからない。だからといって、すぐには絶望しないの「連帯は簡単なものじゃない」と肝をくくって、しばらくの間は孤立に耐える。孤立に耐えられるのはいつか他者と連帯できると信じているからです。勇気を持つのは、孤立に耐えて、連帯が成就する日まで生き延びるためです。


 みなさん、勇気を持ちで生きてください。僕から中し上げたいことはこれに尽くされます。

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