現在(いま)を生きがたく思っているすべての人に薦めたい一冊 青山美智子 著『お探し物は図書室まで』(ポプラ社 刊)
最初は、よくある「生きがたい」人たちが、ある出会いによって自分の「生きがたさ」を解決していくお話ではないかと、第1章「朋香 21歳 婦人服販売店員」を読み終わった時は思っていた。まあ、「生きがたい」人たちあるある話だと安直に考えたわけだ。
しかし、第2章「諒 35歳 家具メーカー経理部」、第3章「夏美 40歳 元雑誌編集者」と読み進めていくうちに、いかに自分がこの小説をなめていたのかを思い知らされていった。第4章「浩弥 30歳 ニート」では、完全にアッパーカットを食らい、第5章「正雄 65歳 定年退職」を読み始めるに至っては、ほとんどダウン寸前にまで追い込まれていた。とてもすばらしい作品だと思う。
ネタバレしない程度に、その「すばらしい」箇所を紹介したい。結局、 第3章「夏美 40歳 元雑誌編集者」からはかりになってしまった。
まずは、出版社・メーカーコメントから
お探し物は、本ですか? 仕事ですか? 人生ですか?人生に悩む人々が、ふとしたきっかけで訪れた小さな図書室。彼らの背中を、不愛想だけど聞き上手な司書さんが、思いもよらない本のセレクトと可愛い付録で、後押しします。仕事や人生に行き詰まりを感じている5人が訪れた、町の小さな図書室。「本を探している」と申し出ると「レファレンスは司書さんにどうぞ」と案内してくれます。狭いレファレンスカウンターの中に体を埋めこみ、ちまちまと毛糸に針を刺して何かを作っている司書さん。本の相談をすると司書さんはレファレンスを始めます。不愛想なのにどうしてだか聞き上手で、相談者は誰にも言えなかった本音や願望を司書さんに話してしまいます。話を聞いた司書さんは、一風変わった選書をしてくれます。図鑑、絵本、詩集......。そして選書が終わると、カウンターの下にたくさんある引き出しの中から、小さな毛糸玉のようなものをひとつだけ取り出します。本のリストを印刷した紙と一緒に渡されたのは、羊毛フェルト。「これはなんですか」と相談者が訊ねると、司書さんはぶっきらぼうに答えます。 「本の付録」と――。自分が本当に「探している物」に気がつき、明日への活力が満ちていくハートウォーミング小説。
小町さん(図書室の司書 この人がこの小説のキーパーソン)はちょっとだけうなずき、私の目をのぞきこむようにして顔をまっすぐこちらに向けた。
「でも私、思うんだよ。お母さんも犬変だっただろうけど、私だって生まれてくるときに相当な苦しみを耐え抜いて、持ちうるだけの力をすべて尽くしたんじゃなトかって。十月十日、おかさんのおなかで誰からも教わることなく人間の形に育って、まったく環境の違う世界に飛び出してきたんだから。この世界の空気に触れたとき、さぞびっくりしたがるうね。なんだ、ここはって。忘れちゃってるけどね。だから、嬉しさとか幸せとか感じるたびに、ああ、私、がんげって生まれてきたかいがあったって、噛みしめてる」
胸を突かれて、私は黙る。小町さんはパソコンのほうに体を向けた。
「あなたもそうだよ。たぶん、人生で一番がんばっだのに生まれたとき。その後のことは、きっとあのときほどつらくない。あんなすごいことに耐えたんだから、ちゃんと乗り越えられる」 第3章「夏美 40歳 元雑誌編集者」
『月のとびら』は、表紙にぼんやりと自い半月の描かれた、青い青い、青い本だった。
表紙や裏表紙だけでなく、天も地も小口も……つまり、紙の断面すべてが青く塗られているのだ。暗くはないけど華美でもない、深くて遠い青。そして表紙を開いたところの見返しは墨のように真っ黒たった。本を開くと、ディープーブルーに囲まれてクリーム色の神が現れるそこに書かれた文字を目で追えば、まるで夜の中で読んでいるような気持ちになった。
ぱらっとページをめくったところで、「母」という漢字か私を捉えて手が止まる。
星占いの世界で、月は「母親、妻、子供の頃の出来事、感情、肉体、変化」などを意味します。
月が母親や妻を意味する?
よく、「お母さんは一家の太陽」つて言うのに。だからいつも明るく笑っていなくちゃいけないって。意外に思ってその近辺を戻りながら読み進めていくと、興味深いことが書いてあった。
妊娠した女性のおなかが膨らむこと、月経周期と月の周期が一致することから、母体と月が重ねられるイメージ。処女神である月の女神アルテミスや聖母マリアを例にとった、処女性と母性が同時に象徴されることに関する考察。
おもしろい。そして、文体か美しくてわかりやすくて、頭にすっと入ってくる。「占い」というよりは、月を身近に感じられるような「語り」の本だった。カバーの袖に書かれた石井ゆかりさんのプロフィールを見ると、「占い師」ではなく「ライター」となっている。
たんだかものすごく納得して、このの本をじっくり読みたくなり、私は借りることを決めた。 第3章「夏美 40歳 元雑誌編集者」
一度声に出したら、止まらなくなった。弾みがついて次々に言葉が出てくる。
「保育園の送り迎えはすべて私、あたかが食べるかどうかもわからない夕飯を作るのも私。今日だって行きたいところがあったのに、たいしたことないのに保育園から呼び出しよ。時間に追われて、いつも急いでいて、自分のことなんて全部後回しで、私はできないことだらけなんだからねっ!」
「なんだよ、俺だって遊び歩いてるわけじやないだろ」
「飲みに行ってるじゃない、連絡もしないで!」
思わず、たたみ終えたタオルを投げつけた。近くにあったマグカップにしなかったのは割れたら困るからだ。こんなに頭に血がのぼっているのに、一方で瞬時にそんな計算を働らかせている
「ふたりの子でしょう。妊娠したとき、協力し合おうって言ってたじゃない。もっとお迎えとか家事とか、修二だってやってよ!」
「じゃあ、俺が出世しなくてもいいの? 会議や出張をほっぽって迎えに行ったり、早く帰ってきて夕飯作るとか、無理だよ。現状として動けるのは、融通の利く部署にいて5時で上がれる夏美じゃないか」
私は黙った。悔しかった。修二が会社で立場が悪くなったら、それは困ると思う自分がいる。
でも、そんなのずるい。私はキャリアを降りたのに。修二だけ自由に仕事に集中できるなんてずるい。
結局、家のことぱ私かすべて背負わなくちゃいけないんだろうか。
母親だから?
「……私ばっかり損してるよね」
私か涙声を投げかけると修二はあからさまに嫌な顔をし、何か言いかけてはっと目を見開いた。
リビングのドアのところに、双葉が立っていた。大きな声を出したせいで、起こしてしまったらしい。 第3章「夏美 40歳 元雑誌編集者」
先生の前でなんとか蓋をしていた感情が、堰を切ってこぼれだす。
「ミラでバリバリ働いてる木澤さんに嫉妬したり、子どもができて人生が狂ったなんて思ってしまって、そういう自分もいやで」
みづえ先生はスプーンを置き、穏やかに言った。
「ああ、崎谷さんもメリーゴーランドに乗ってるとこか」
「メリーゴーランド?」
ふふふ、とみづえ先生が目元をほころばせる。
「よくあることよ。独身の人が結婚してる人をいいなあって思って、結婚してる人が子どものいる人をいいなあって思って。そして子どものいる人が、独身の人をいいなあって思うの。ぐるぐる回るメリーゴーランド。おもしろいわよね、それぞれが目の前にいる人のおしりだけ追いかけて、先頭もビリもないの。つまり、幸せに優劣も完成形もないってことよ」
そこまで楽しそうに言うと、みづえ先生はコップの水を飲んだ。
「人生なんて、いつも大狂いよ。どんな境遇にいたって、思い通りにはいかないわよ。でも逆に、思いつきもしない嬉しいサプライズが待っていたりもするでしょう。結果的に、希望通りじゃなくてよかった、セーフ!てことなんかいっぱいあるんだから。計画や予定が狂うことを、不運とか失敗って思わなくていいの。そうやって変わっていくのよ、自分も、人生も」 第3章「夏美 40歳 元雑誌編集者」
私が頭を下げると、先生はいたずらっぽく笑って小首をかしげた。
「それで、おいくつになられますか」
「40歳に」
「いいわえ、やっとこれから本当に、いろんなことがやれるわよ。楽しみなさい、遊園地は広いのよ」
みづえ先生は私の手をぎゅっと握った。
「お誕生日おめでとう。私と出会ってくれて、ありがとう」
じんわりと、体の隅々まで安らかなもので満たされる。
私かミラで得たものは、仕事のキャリアだけじゃなかったのかもしれない。職場を離れたところで向けてもらえた、こんなにあたたかな想い。
がんばって生まれてきたかいがあったと、私は心から思った。
その夜、珍しく双葉があっさりと寝た。
まだ帰宅しない修二の夕食にラップをかけ、リビングのソファで『月のとびら』を開く。
少し読んでいくうち、「心の中の、2つの『目』」という印象的なタイトルが現れた。私はわくわくと、ページに顔を近づける。
「目に見えない何か」を見るときの、2つの目。
ひとつは、理性的に、論理的に眺める「太陽の目」。物事に明るい光をあて、理解すること。
もうひとつは、感情率直感でそれを捉えて結びついたり、対話したいと願う「月の目」。
暗がりの中の妖怪や、密やかな恋みたいな、想像、夢。
この2つの目を、私たちは心の中に持っている……そういうことが、書かれていた。
心惹かれる文章だった。久しぶりにクリアな頭で、本を読み進めていく。神話における太陽と月の関係性。占いやおまじないの捉え方。人間の抱く隠された感情について。美しいブルーに包まれながら、私は夢中でよみふけった。
私たちは大きなことから小さなことまで「どんなに努力しても、思いどおりにはできないこと」に囲まれて生きています。
「思いどおり」という言葉が出てきて、びっくりした。今日、みづえ先生か言っていたのと同じだ。そこに続いて「変容」についても書かれていた。不思議だけど、本を読んでいると時々、こんなように現実とのシンクロが起こる。
小町さん、すごいな。どうして私にこの本を教えてくれたんだろう。
第3章「夏美 40歳 元雑誌編集者」
わたしは海老川さんの横顔を見た。刻まれた皺。乾いた皮膚。
彼はどこか達観していて、依子の言うように、まるで仙人みたいだった。
海老川さんは、いろんな職を、そしていろんな出来事を経験しながら、誰かの人生を明るく変えるような偉業を成し遂げたのだ。きっとその高校生だけじゃなく、たくさんの人に光をもたらしたに違いない。
わたしはうつむいた。
「……すごいな。わかしは今まで、ずっと同じ職場で任じられた仕事をこなしていただけです。海老川さんのように、生きざまか誰かに影響を与えるようなことは、なにも。会社を辞めたとたん、社会から無用の存在になってしまった」
すると海老川さんは、やわらかく笑った。
「社会って、なんでしょうね。権野さんにとって、会社が社会ですか」
胸に何か刺さったようで、わたしは心臓のあたりを手で押さえた。海老川さんは顎の先を少し窓に向ける。
「何かに属するって曖昧なもんです。同じ場所にいても、こんなふうに透明な板を挟んだだけでその向こうのことは自分とは関係ないような気持ちになりますよね。この仕切りりを外せば、とたんに当事者になるのに。見てるのも見られてるのも、同じことなのにね」
海老名さんは、わたしの顔をじっと見た。
「権野さん。人と人か関わるのならそれはすべて社会だと思うんです。接点を持つことによって起こる何かが、過去でも未来でも」
接点を持つことによって起こる何かが、過去でも未来でも……。
仙人の言葉はなんだか高度で、わたしにはうまく呑み込めなかった。
でも海老川さんの言うように、わたしにとって社会は会社だったのかもしれない。そしてそれはもう、窓の外だと思っていた。ガラス越しにぼんやりと眺めるしかない、見えるのに触れられない世界。
たとえばこのマンションで普段、窓のあちら側を歩いているわたしば、今、こちら側で海老川さんと話をしている。
海老川さんの言葉どおりに考えるなら、彼と接点を持っている今のわたしにとってこの場所も……社会なのか?
波はよせ。波はかえし。波は古びた石垣をなめ
社会に荒波はつきものだ。
草野心平は、どこの窓から海を見つめていたのだろう。
なぜ浜辺ではなく窓からだったのだろう。
それは海の美しさも恐ろしさも知っていたからではないか。だからあえて、ガラスを隔て、その世界を他者として傍観してみたかったのではないか。
もちろん、こんなことは単なるわたしの想像だ。
だけどわたしは少しだけ、ほんの少しだけ……。彼といっしょに、生きた気がした。 第5章「正雄 65歳 定年退職」
「やめて。みんながわかったような口ぶりでそう言うから、そんな流れになっちゃうんだよ。本を必要としている人はいっもいるの。誰かにとって大切な一冊になる本との出会いが、本屋にはあるんだよ。私は絶対、この世から本屋を絶やさせたりしない」
千恵はずずっと蕎麦をすすった。
正社員になれないとぼやかながら、そんな壮大なことを考えているのか。
心が動くって、そういうことなのかもしれない。本当に好きなんだな、本が。そして、本屋の仕事が。
「……ごめん。千恵、がんばってるのにな。父さんよりずっとに立派だ」
わたしが箸を止めると、千恵はかぶりを振る。
「ひとつの会社で最後までずっと勤め続けたお父さんだって、すごいよ。がんばったよ。呉宮堂のハニードーム、みんな大好きだし」
「いや、父さんが作った菓子じゃないから」
小町さんともそんな会話をしたなと思いながら、わたしはまた箸を動かす。千恵はぎゅっと眉をひそめた。
「えー?それを言うなら、私が書いたた本なんて一冊も売ってないよ。でも、私かこれがいい!って思った本が売れたら、めちゃくちゃ嬉しい。だからPOPにも気合が入るの。自分が推す本って、気持ち的にはちょっとだけ、私の本ってぐらいに思ってるよ」
千恵は天ぷらにかぶりつく。
「作る人がいるだけじゃ、だめなのよ。伝えて、手渡す人がいなきゃ。一冊の本が出来上がるところから読者の元に行くまでの間に、いったいどれだけ多くの人か関わってると思う? 私もその流れの一部なんだって、そこには誇りを持ってる」
わたしは千恵を見た。こんなふうに、ちゃんと向きあって仕事の話をしてきたことなんかなかった。いつのまにこんなに……大人になって。
わたしが作ったんじゃないハニードーム。でもわたしも千恵のように、素晴らしい菓子だと熱意を持って勧めてきた。誰かが美味しいと顔をほころばせる瞬間にたどりつくまで、その流れの一部になれていたことがたしかにあったかもしれない。そう思うと、わたしの42年間も報われる気がした。
「あ、そうだ。そういえばさ」
蕎麦をあらかた食べ終えたところで、千恵はトートバッグに手をかけた。中から本を取り出す。『げんげと蛙』だ。
「お父さんが草野心平を読んでるなんて聞いて嬉しくなって、買っちゃった」
千恵は本を開き、ぱらぱらとめくった。
「この『窓』つて詩がいいよね。この詩集の中で、ちょっと異質な感じがする」
親子で同じ詩に心を留めたことが嬉しくて、わたしは訊ねる。
「これ、なんで『窓』ってタイトルなのか、不思議にならなかったか」
ページに目を落としたまま千恵は、うーん、と唸った。
「私の想像だけど。民宿に泊まってさ、窓を開けたら海!ってなって、感動したんじゃない? それまで部屋の中しか見てなかったのが、外にこんな世界が広がってるって知って。窓辺で潮風に吹かれながら、雄大な海に人生を重ねてたのよ」
最後のほうはイメージの世界に身をゆだねるようにして、本を開いたまま胸に押しあてる。驚いた。同じ文章なのに、わたしとはまるで違う風景を千恵は見ているのだ。
千恵といっしょに生きる草野心平は、ずいぷんと明るくてポジティブだ。
詩っていいな。わたしは心から、そう思った。
実際のところは草野心平にしかわからない。でも読んだ人それぞれの解釈があって、それがいい。千恵は本を閉じ、表紙の蛙をそっとなでた
「私にとっては、自分が読者として本を買うことも流れの一部なんだよね。出版界を回してるのって、本に携わる仕事をしている人だけじゃなくて、なんといってもいちばんは読者だもん。作る人と売る人と読む人、本って全員のものでしよ。社会ってこういうことだなあって思うんだ」
社会。
千恵の口から出たその言葉に、はっとした。
世界を回しているのは……仕事をしている人だけじゃなくて……。
人と人が関わるのならそれはすべて社会だと思うんです。接点を持つことによって起こる何かが、過去でも未来でも。
海老川さんの言っていたことがようやく理解できた気がする。
会社だけじゃない。親子の間にもちゃんと「社会」があったのではないか。幼いころにわたしか何気なく口にした言葉を、大切に解釈し自分のもののにしてくれた千恵。成長したその姿に大きく心を揺さぶられるわたし。
第5章「正雄 65歳 定年退職」