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「慣れだよ」は最低の助言

「大丈夫、それは慣れだよ」って一見優しげな言葉。

例えば
「人前に立つと緊張します。どうやったら堂々と話せますか?」
「慣れだよ。回数をこなせば緊張しなくなる」
よく考えると非常に失礼な助言ではないだろうか。

先日似たような話が出た際に「うーん慣れかも」と適当に回答してしまった。とても後悔している。
慣れだよは冷たい言葉だ。何も言ってないのと同じどころか「あなたには興味がないから何も教えないし一人でがんばっとくれ」って突き放しているようなものだと思う。

自戒の念を込めて書く。割と強い言葉を使っているが自分自身に向けてであり、皆さんにどうこうしろと言うつもりはない。

気安く「慣れ」などと言うべきではない

ファシリテーションが苦手だと言うメンバーと話していた。

  • 多人数を前にすると緊張する

  • 時間内に結論を導き出せるのか不安になる

  • 発言によって常に局面が変わるため、どう対応するのか思考が追いつかない

よくある話だ。

最終的に「やっぱり慣れですかね?」「慣れかもですね」と会話は終わった。その後先の会話について考え、反省した。

断じて慣れなどではない。ファシリテーションには基礎基本があり、手法や思考方法を学び練習することで上手くなる。プレゼンテーションも電話対応も飛び込み営業も何だって同じだ。それらを慣れの一言で片付けてはいけない。自転車の練習をする子どもに「慣れたら乗れるよ」と助言をする人なんていないだろう。

慣れの要素は存在する、しかし、極めて小さい

回数をこなすことで該当の事象が上達して苦手意識も減る。これは事実だろう。反復練習の有用性を否定するつもりはない。先のケースにおいても何度も似たような局面に直面することで自分なりの解決法を見出すことはあるだろう。

しかし自己流は間違った学習をしてしまう危険を伴う。例えば、ミーティングの冒頭にくだらないギャグをかましてたまたまいつもより意見が出やすい雰囲気が生まれたとする。その成功体験に気をよくしてファシリテーションのポイントはギャグによる笑いだ、なんて学習してしまったら目も当てられない。(いい例が思いつかなかった。申し訳ない。)

大切なのはまずは一般的に正しいとされている基礎を学び繰り返し経験を積むことだ、何となく当てずっぽうでやってみることではない。

慣れれば緊張しなくなるってのも嘘だ。何度経験しても無くならない。まあ緊張については個人の性格に依存する要素かもしれないのであまり言及はできないけど。

そもそも、相談されているのに自身の持つさまざまな知見を隠して「慣れだよ」なんて軽々しい言葉で片付けるんじゃねーよって話だ。

慣れって言葉の後ろにあるもの

と書いてきたものの、私自身この一見優しいような、偉大な先輩のような言葉を幾度となく吐いてきた。今、これまで失礼な対応をしてきた方々に一人一人謝って回りたい気持ちでいっぱいだ。

なぜ慣れって言葉を安易に使ってしまうのだろうか。この裏側にはどんな気持ちが潜んでいるのか記憶を辿りながら考えてみる。

相手のレベルに合わせて一から細かく説明するのが面倒くさい

初心者や新入社員に「慣れだよ」って言ってしまう時は、あー説明してもなーって気持ちになっていることが多い。例えばセミナーでの講演後「どうやったら堂々と話せるようになりますか?」みたいな質問を受けた際に、繰り返せばできるようになると言ってしまった記憶がある。

私は人前で話すために数多くのタスクを積み重ねている。
会のテーマの深掘り、参加者層の調査、他の登壇者の調査、登壇のテーマ設定、キーメッセージ決め、ストーリー作成、データ調査、ワイヤー作成、スライドのテーマ決め、フォント探し、スライド作成、壁打ち、練習、etc..

先のような初心者のふわっとした質問に対してどれから話せばいいのか。。。となってしまい楽な回答に逃げてしまう。業務未経験者に対しても似たような対応をしてしまう。考えるのが面倒なのだ。あとなんかサラッとやってしまう俺すごいだろって気持ちも無いわけでは無い気がする。

非常によくない。

あまり知らない人に対してこそ、自分がどんなものを積み上げているのか伝えるべきなのだ。全て話す時間がないのであれば、大切にしていること一つだけでも伝えるべきだ。

偉そうなやつと思われないだろうか?相手は怒らないだろうか?って懸念

同年代やチーム外の人に対しての「慣れですかね」はだいたいこんな気持ちを抱えている。自身の知見や気づきを伝えることで関係性が悪くなることを恐れ無難な言葉で逃げている。この人を教育する義務はないしなー、フィードバックをして気を悪くされたら嫌だしなー、この人ならそのうち気づくだろう、とか思っている。

無関心に近い。

聞かれてもいないのに語るのはよくないと思うけど、相談を受けたのであれば(軽いトーンであったとしても)自身の考えをきっちりと伝えたほうがいい。親しい人間であれば尚更だ。

怒るとか気分を悪くするとかは相手の問題であって、こちらとしてはできるだけ丁寧な言葉遣いを心がけるくらいで、あとは知ったこっちゃあない。相談されたからできるだけ真摯な対応をしただけだって心持ちでよい。

自分でも言語化ができていない

上二つは対人の内容だが、これは自身の能力の話だ。
他者から評価される能力の基本構造が自身でもよくわかっていない場合、うまく他人に伝えられない。これは自身や組織の成長にとってよくない。

いわゆる才能ってやつの弊害かもしれない。

私には多分プロジェクトマネジメントの才能がある。なぜかわからないけど最初からある程度できた。SIerに転職して大規模プロジェクトに参加した際に大混乱中のプロジェクトのクリティカルパスやリスク、解消手段みたいなものがすぐに見えた。むしろ他の人は何でわからないのかが理解できなかった。

そこから沢山学び経験してきたが、基本的にこの才能だけで飯を食っている。こう書いてしまうと大層なやつだと思われそうだが、他の人よりちょっと得意なだけで実際は大したことない。

それはさておき、この度社内向けにプロジェクトマネジメントの研修を主催することになった。困った。才能にかまけてなんとなくやってきたせいで、何から伝えるべきかわからないのだ。皆が躓くポイントや注力すべき事項が浮かんでこない。

だから今、ピンポンのペコがオババにお願いしたように、初めの一歩から学び直している。そうしなければ誰かに教えるなんてことができそうにない。

もし「慣れだよ」って発した際に自身でも言語化ができない状態なら、そして共同体の中で仕事を続けていこうと考えているのなら、かなりよろしくない状態に陥っていると考えたほうがいい。

まとめ

面倒くさがらず、もったいぶらず、自身の持つものを分け与えたらいいんじゃないかしら。なんだかいいことしたって気持ちになれるよ。多分。


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