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あなたではなく、神の方があなたに望んでいる

2023年5月7日(日)徳島北教会主日礼拝 説き明かし
創世記12章1−4節(旧約聖書・新共同訳 p.15、聖書協会共同訳 pp.14)
有料記事設定となっておりますが、無料で最後までお読みいただけます。有志のお方のご献金をいただければ、大変ありがたく存じます。
最後に動画へのリンクもあります。「読むより聴くほうがいい」という方は、そちらもどうぞ。

▼創世記12章1-4節

 主はアブラムに言われた。
 「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい。
 私はあなたを大いなる国民とし、祝福し、あなたの名を大いなるものとする。
 あなたは祝福の基となる。
 あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う人を私は呪う。
 地上のすべての氏族は、あなたによって祝福される。
 アブラムは主が告げられたとおりに出かけて行った。ロトも一緒に行った。アブラムはハランを出たとき、七十五歳であった。(聖書協会共同訳)

 主はアブラムに言われた。
 「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。
 わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。
 あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。
 地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
 アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。
 アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。(新共同訳)

▼嫌なものは嫌

 おはようございます。今日は「アブラムの召命」と呼ばれている有名な聖書の箇所から、私たちが思いがけない人生の転機を迎えたとき、あるいは危機を迎えた時、私たちは何を聖書から読み取るべきなのかについて、個人的な考えも交えて読み解きたいと思います。
 今日の聖書の箇所で、アブラムという人物が、主に「故郷を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と言われます。
 アブラムというのは、アブラハムという人物の昔の名前です。アブラハム(英語でのエイブラハム)という人は、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの3つの一神教の始まりになった人なので、聖書の中では大変重要な人物です。そのアブラハム(アブラム)が、この主の呼びかけに応えて故郷を離れて旅立つところから、一神教の歴史が始まるという大変大切な場面です。
 75歳になって、故郷を離れて新しい土地に引っ越して、新しい人生を始めなさいと言われたら、私たちはどのように思うでしょうか。
 「そんなの嫌だ」、「勘弁してくれよ」と思いませんでしょうか。
 私だったら、「そんなの嫌だ」とはっきり言いたくなると思います。私はまだ60にもなっていませんけれども、最近はやりたくない仕事で断ることが可能な仕事はできるかぎり断るようにしています。
 まあ、そうは言っても、どうしても断れない仕事のほうが実際には多いですし、「ぜひやらせてください」と思うような仕事も結構あるので、あまり忙しさは変わるということはないのですけれども、それでも嫌なことに遭遇したときには、「嫌なことは嫌」、「面倒なことは面倒」と態度に表すことが多くなりました。わがままになったんですね。
 ところが、アブラムは文句も言わずに従ったように描かれています。
 あるいは、物語がシンプルに書かれすぎているので、ここに記されてはいませんけれども、本当はアブラムは心の中では「嫌だなあ」と思っていたかもしれません。しかし、結果的には彼はその思いを超えて、主に従う道を選んだわけです。

▼わたしが示す地に行きなさい

 先日、受洗された方にお祝いとしてプレゼントした『証し 日本のキリスト者』という本に、今日の聖書の箇所に出てくる言葉、「わたしが示す地に行きなさい」という言葉に導かれて、人生が変わった人が複数出てきます。
 「わたしが示す地に行きなさい。」
 その言葉に、「自分の人生はこちらに進まなければならないのだ、そのように神が私を導いているのだ」と悟った瞬間を経験した人がいます。
 その導きを感じたとき、素直に「はい」と応える人もいれば、「そんなことはあるはずがない。そんなのはは嫌だ」と逡巡したあげく、それでも逃げ道はないということをやがて思い知らされて、神さまが導く方向へと進んでゆく人もいます。
 しかし、いずれにせよ、私たち誰もの人生においても、避けることのできない変化、転機というものがあるの事実ではないかと思います。
 以前、「こころの会」でもお話したことがあって、参加された方はご記憶ではないかと思うのですけれども、人生には、その時その時の「フェーズ」というものがあるのですね。「フェーズ」というのは日本語では「段階」とか「局面」という風に言います。人生の新しい局面に、私たちは否が応でも差し掛かる時がやってくるということなんですね。

▼神さま、なぜですか

 その思いがけない人生の転機にぶち当たったとき、私たちは「神さま、なんで?」と訊きたくなります。「神さま、あなたの御心はどこにあるのですか?」と悩み、苦しみます。
 特に、悲しみ、苦しみのときに直面したとき、「私たちには神さまの御心がどこにあるのか、わかりません」と言うしかない時があります。私は牧師として、立場的にこんなことを言ったらいけないのかもしれませんけれども、わからないことは「わからない」と率直に言います。
 これは私個人の考えですが、神さまが何かの意図があって、この世の様々な出来事を逐一コントロールしておられるということは「ない」のではないかと思います。全ては神さまの手を離れて起こる出来事なのではないかと思っています。
 これは私なりに、「神さまはそんなひどいことをなさる方ではない」という信仰の形から出てきている考え方です。もし、神さまがひとつひとつのこの世の出来事に手を下しておられるのなら、神さまはものすごく理不尽なお方であるということになります。
 「なぜ、このような大災害を神は起こされるのか」、「なぜこのような大事故を神は起こされるのか」、「なぜこのような犯罪を起こす人間を、神は止めてくださらなかったのか」……そういう風に、神に責任を求めても、答えはありません。
 そのような大人数が被害を受けるような出来事でなくても、私たちはごく個人的なことでも、大変な苦しみを味わいます。
 「なぜ私がこんな病気になってしまうのか」、「なぜ今この人の命を奪うのか」……神に訊きたいことは山ほどあります。しかし、神は答えを与えてくださらない。
 なんでこんなに人生には試練が多いのだろう。なんで自分の人生がこういう風になってしまうんだろう。自分は決してこんな風になる人生を望んでいたわけではなかったのに……と、私たちは思います。

▼「答え」ではなく「問い」を

 私は思うんです。 
 私たちは、人生に何かを自分で期待することは、究極的にはできないのではないだろうか。
 私の人生は絶対に自分の期待通りにはいかないものなのだと思うしかないのではないか。
 しかし、こうとも思うんですね。むしろ期待しているのは、神さまの方ではないのだろうかと。私たちは期待する側ではなく、神さまに期待されているのではないかと。
 私たちが難しい、困り果てた状況の中にある時、「あなたはそこでどう振る舞うのか。どう生きるのか」。それを神さまは私たちに問いかけておられる。それが神なのではないかと思うのですね。
 つまり、神は「答え」を示すのではなく、私たちに「問い」を投げかけておられるのです。
 だから、ここで踏ん張って生きなければならない。
 疲れたら休んだらいい。痛みを覚えた時も休んだらいい。けれども、やがて私たちは立ち上がる。そして神さまの期待に応えて、今日も明日もあさっても、与えられた命を生きてゆかねばなりません。
 苦難に出会った時、私たちは「これは神が私を新しい人生のフェーズに導いているのだ」と思うべきなのかもしれないのではないか。
 ヨハネによる福音書の15章16節にも、「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」という言葉があります。私たちが神を選ぶのではなく、神が私たちを選び、ある1つの運命に導きます。私たちは、必ずしも自分で選んだ自分の思い通りの人生ではないのだけれども、その人生を送るために神に選ばれたのだ、という考え方ができるのではないかと思うんです。

▼神は一級の教育者

 アブラムは、「いい歳になったし、そろそろ落ち着いた生活を歩みたいものだ」と思った矢先に、「新しい場所に行け」、「わたしが示す地に行きなさい」と主に言われてしまいました。
 同じように、私たちは自分が人生の新しいフェーズを迎えた時、これは神さまが私自身に何かを望んでおられるのだと、その神さまの期待に応えて生きざるを得ないのではないでしょうか。
 繰り返しになりますが、神さまはすぐには「答え」をくれません。「問い」だけが私たちにぶつけられています。「そこであなたはどう生き切るのか」ということが神さまによって問われています。その「答え」を私たちは自分で見つけてゆかねばなりません。
 しかし、その自分で一生懸命悩んで悩んで見つけた「答え」を、それがどのようなものであれ、神さまはきっと受け入れて、祝福してくださることは間違いありません。それは聖書に書いてあるとおり、主がアブラムに最大限の祝福を与えてくださっているからです。
 主はアブラムに、「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う人をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(創世記12.3)と言葉をかけます。「あなたを呪う人をわたしは呪う」というのは、ちょっと穏やかではありませんが、要するにアブラムは主に格別に愛され、お気に入りにされるということです。
 そのアブラムによって、地上のすべての人が神の祝福に入る、というのは、アブラムに他の人の祝福のために奉仕しなさいということです。
 主がアブラムを祝福し、役割を与えたように、私たちは私たちなりに悩んで出した、その「答え」に基づいて、神さまはきっと私たちを祝福してくださると信じたいと思います。
 そしておそらく後になって、私たちは、そうやって出した自分の「答え」が、実は自分だけで出した答えではなく、そこにも神の「導き」があったことを気づくのでしょう。いわば「答え」を出すのは、人のうめきの祈りと神の導きの共同作業なのでしょう。
 そう考えれば、「問い」を投げかけることで人間に自分なりの「答え」を考えさせる。そうやって人間を導く。それは教育と同じです。
 いかに生きるか。「問い」を投げかけ、「答え」を自分で考えさせて、その「答え」を受け入れてくださる。神は一級の教育者なのだろうと思います。
 ですから、そんな神さまの胸を借りながら、神さまにくらいついて、一生懸命自分なりの人生の「答え」を模索してゆきましょう。
 祈ります。

▼祈り

 神さま。
 私たちは人生の危機をたびたび迎えます。今も大きな危機に瀕している者が、私たちの教会の中にもたくさんいます。
 神さま、どうか私たちにこの危機を乗り越えさせてください。
 そして、この危機において私たちが生きるためにどうしても必要な、自分らしい「答え」を見出すことができますように、お導きください。
 病にある者、孤独にある者、喪失感を覚えている者、行き詰まりを覚えている者、困窮している者、諸々の悩み苦しみが私たちの人生にはあります。
 どうか、この人生を乗り越えてゆく勇気と力を、あなたが与えてください。
 そして、私たちがお互いに繋がりあい、支え合いつつ、あなたによる交わりを共に生きてゆく、力強き教会として日々を歩んで行けますように、どうか導いてください。
 主の御名によってお願いしたします。アーメン。


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