小さな命を守れなければ
2023年8月6日(日)徳島北教会 平和聖日礼拝 説き明かし
詩編147編10−11節(旧約聖書・新共同訳 p.987、聖書協会共同訳 p.969)
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▼詩編147編10−11節
主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく
人の足の速さを望まれるのでもない。
主が望まれるのは主を畏れる人。
主の慈しみを待ち望む人。(新共同訳)
▼原爆を笑いごとにする人たち
おはようございます。
今日は、8月第1週の日曜日、日本基督教団では1962年以来、「平和聖日」と定められています。しかも、今日8月6日は広島に原爆が投下された日です。世界で初めて実戦で核兵器が使われて、一般市民の上に核爆発が起こり、何十万もの人が犠牲になりました。続いて8月9日にも今度は長崎にも原爆が落とされたのは、皆さんもよくご存知のことだと思います。
皆さんは、つい最近、ここ数日流行した「バーベンハイマー」という言葉をご存知でしょうか。お聞きになったことはありますか?
アメリカで7月21日に公開された2つの映画の題名をくっつけた造語です。1つが『バービー』というお人形さんが実写版になって活躍するファンタジーコメディ。もう1つが『オッペンハイマー』という第二次世界大戦中に原爆を開発した科学者の伝記です。この『バービー』と『オッペンハイマー』という、全く関係のない映画の題名をくっつけて『バーベンハイマー』という言葉が作られました。
といいますのも、ある人たちが悪ふざけで作った、原爆が大爆発を起こしている前で、オッペンハイマーがバービーを肩に乗せているという画像が流れたのに対して、映画会社の『バービー』の公式アカウントの担当者が喜んで同調するようなX(以前Twitterと呼ばれていたSNSですけれども)の書き込みをしたという事件が起こりました。他にも、バービーの髪の毛がアップになって、キノコ雲の形になっている画像も作られて流れました。この2つの映画のタイトルをミックスして『バーベンハイマー』。
これに対して、日本のXを使っている人たちから、猛然と反発が起こり、「あのキノコ雲の下で何人が犠牲になったのか知ってるのか」「原爆で遊ぶな」という声が上がったんですね。
アメリカという国では、日本への2発の原爆の投下を「良かったことだ」と考える人が多いと聞きます。あの原爆が戦争を終わらせたんだと。あの原爆がなかったら、米軍は沖縄だけではなく、更に日本本土まで上陸して、更に多くのアメリカ兵が犠牲になっただろう。だから、あの原爆はよかったんだと。
私は、あるテレビの特集番組で「あの原爆で戦争が終わったおかげで、私のおじいちゃんは帰ってくることができました。もし日本で上陸戦が続いていたら、おじいちゃんは日本で死んでいたでしょう。もしそうなったら、今の私は生まれていません。ですから、私は原爆が落とされてよかったと思っています」と話す少年の姿を見て、ぞっとしたことを憶えています。そして、こんな風に、あまりにも違う原爆の捉え方によって、アメリカと日本の人間を分断してしまう戦争というものの恐ろしさ、戦争に対する怒り、戦争を遂行する権力への怒りを覚えました。
今回の『バーベンハイマー』の出来事も、そんなアメリカの、核兵器を笑いのネタにしてしまうような認識の恐ろしさに、ショックを受けています。
▼ヒロシマの抹消
これも最近の出来事ですが、今年の5月に広島でG7のサミットが行われました。
これに先立つような形で、広島の平和教育の授業で使う副読本から『はだしのゲン』という漫画からの引用(転載)が削除されたという事件が起こりました。
『はだしのゲン』というのは、1975年から連載された漫画なので、皆さんご存知の方が多いと思いますけれども、広島の「ピカ」つまり原爆で被災したゲンという少年が主人公の物語です。私も中学生のときに図書館でこの漫画を食い入るように読んで、原爆の恐ろしさと戦争がいかに間違ったことであるかを学びました。
この『はだしのゲン』が、原爆の恐ろしさ、戦争の愚かさを伝えるのに適切だとされて、長い間平和教育の本に使われてきたんですけれども、これが今年になって取りやめになるということになりました。
推測ではありますけれども、サミットが行われて、核兵器を持つ国の首脳が広島にやってくるということで、広島出身の総理大臣であるということもあり、あまり刺激しないようにという忖度から、そういうことが行われたのではないかという見解も流れています。削除した広島県の教育委員会からのコメントも、「現在の子どもたちの生活の現実とは一致せず、教材としては適切ではない」というような答弁をするだけで、説得力のあるものとは言い難いものです。
そして、この広島で行われたサミットに、ウクライナのゼレンスキー大統領がやってきて、戦争への協力を求める。西側先進国に日本を加えた首脳たちはウクライナへの戦争協力を約束する。あの広島でそんな合意が取り交わされるなんて、原爆で死んだ人たちの霊というものがあるならば、その霊たちがどんな思いでこのような状況を見ていただろうと思います。
広島の平和記念公園の死没者慰霊碑には、「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」という文字が刻まれていますけれども、亡くなられた方たちは、安らかに眠っておられるのだろうか。我々は再び「過ち」を犯しているのではないかと、思わずにはおれないのですが、皆さんはどのようにお考えになりますでしょうか。
▼主は馬の勇ましさを喜ばない
本日お読みしました聖書の箇所、詩編147編10−11節には、こう書いてあります。もう一度読んでみたいと思います。
主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく
人の足の速さを望まれるのでもない。
主が望まれるのは主を畏れる人。
主の慈しみを待ち望む人。
「主は馬の勇ましさを喜ばれない」と書いてあります。聖書においては「馬」というのは戦争の道具です。聖書にもいくつか動物が登場しますけれども、その中でもよく出てくる羊や山羊やロバは一般大衆の生活に直結していて、平和の象徴です。イエス・キリストが十字架にかけられる直前にエルサレムの街に入るときに、子ロバの背中に乗ってやってきたというのも、イエスが平和の王であるということを表しているのだと言われています。
これに対して馬は戦争を象徴します。古代の社会で馬を必要とするのは、軍隊です。馬は軍隊の象徴です。ですから、この詩編で「主は馬の勇ましさを喜ばれない」というのは、神さまは戦争を喜ばれないということです。
「人の足の速さを望まれるのではない」というのも、何もかもが効率的になり、強さや豊かさを誇るために、速く速くと急き立てて、右肩上がりの世界をやたらと目指すのではなく、ゆっくりと、じっくりと進む生き方を神さまは好まれるのだということが述べられています。
そして、「主が望まれるのは主を畏れる人。主の慈しみを待ち望む人」。人間を畏れて、人間の権力に服従するのではなく、主なる神さまだけを畏れる。この場合の「おそれる」というのは「怖がる」という意味ではなくて、「かしこまって敬う」という意味です。いちばん大切なことは平和の神を敬う。神さまの望んでおられる平和をいちばん大切なものとするということが、今日の聖書の言葉から学べるのではないでしょうか。
私たちは何を大事にしなければならないのか。
どこの国にも、子どもたちはいます。今戦っている国々の国民、様々な民族の中にも、私たちの家族の中にも、小さな命がいて、その命を私たちは一生懸命可愛がり、守って、育んでいこうとしています。
その命は、そのまま国や民族の未来になろうというのに、その未来をその国や民族の大人たちの都合で叩き潰そうというのですから、本末転倒です。戦争こそが、最も愛国心から離れた行為だと言わざるを得ません。
本当に国の未来を守ろうとするなら、国の未来を拓こうとするなら、子どもたちの小さな命を守れなくて何になるでしょうか。
▼ゆっくりと不服従する
しかし、その命を守るために、私たちには何ができるでしょうか。多くの国々の大きな権力が現にいま大規模な戦争を行っており、それを支援する国もたくさんある。
また、そのような国の恐ろしい兵器による被害を、笑い事にするような国民が政府を支持しているような国がある、
そして、私たちの国も着々と次の戦争の準備を進めている中で、私たちにできることは、何なのでしょうか。
こうやって平和への願いを礼拝で分かち合い、それを普段の生活のなかで、言葉にできるところで言葉にしてゆくことでしょうか。あるいは、選挙という形で私たちの意志を明らかにしてゆくことなのでしょうか。
それはあまりに遅い、あまりに力が弱いやり方なのかもしれません。もっと力強い、戦争を起こそうとする勢力を叩き壊すような方法をとったほうが良いのでしょうか。
しかし、そういう「力に対して力をもって対抗する」というやり方が、結局は新たな戦いを産んでしまうことも私たちは知っています。平和を作るというのは、実に時間のかかる、効率の悪い、ゆっくりと歩むということなのかもしれません。
ゆっくりと歩むということで、「速く速く」と馬のように急き立てる政治的な権力に対して、「あえて服従しない」。「不服従」というやり方をとることもできるかもしれない。色々な抵抗の仕方があるかもしれません。
もちろん「不服従」というのも、苦しい道です。不服従というのは、権力からだけではなく、それまで仲良く一緒に暮らしていた一般大衆の人々さえも敵に回しかねません。それでも、不服従を貫くということが私たちにできるでしょうか。
日本基督教団はかつて第二次世界大戦のときに、熱狂的に大日本帝国の戦争を支持し、協力した過去がありますが、そのような中で、最後まで戦争に協力せず、反対を唱えた教派の人たちもいました。
「ホーリネス」という教派の名前を聞いたことのある人もいるかもしれません。ホーリネス系の人たちは、信徒も牧師も戦争反対を貫いて、暴力を振るわれ、逮捕されて投獄され、獄中で殺された人もいました。
戦争する政治権力に対して、また戦争協力する教会に逆らって、命をかけて「不服従」を貫いたクリスチャンたちがいたということ。それは、その通り私たちもできるかどうかは別としても、「そういう人たちがいたのだ」ということだけは、少なくとも覚えておかなくてはいけない事実なのではないかと思います。
日本基督教団が自らの戦争協力を認めて、自らの教団にも責任があった告白をしたのは、第二次大戦が終わってから、ようやく20年後のことです。その時でも、教団内には戦争責任を認めることに強行に反対した勢力もあったそうです。最終的には、日本基督教団の名前ではなく、当時の議長の名前で出すということで妥協がなされたとも聞いています。
今日は、この日本基督教団の戦争責任告白を朗読して、説き明かしを終わりたいと思います。困難を極めつつある時代にあって、今一度私たちがなすべきことは何なのかを考えさせてくれる、今も生きている大切な言葉であると思います。
それではお読みします。
▼第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白
『第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白』
わたくしどもは、1966年10月、第14回教団総会において、教団創立25周年を記念いたしました。
今やわたくしどもの真剣な課題は「明日の教団」であります。
わたくしどもは、これを主題として、教団が日本及び世界の将来に対して負っている光栄ある責任について考え、また祈りました。
まさにこのときにおいてこそ、わたくしどもは,教団成立とそれにつづく戦時下に、教団の名において犯したあやまちを,今一度改めて自覚し、主のあわれみと隣人のゆるしを請い求めるものであります。
わが国の政府は,そのころ戦争遂行の必要から、諸宗教団体に統合と戦争への協力を,国策として要請いたしました。
明治初年の宣教開始以来,わが国のキリスト者の多くは、かねがね諸教派を解消して日本における一つの福音的教会を樹立したく願ってはおりましたが,当時の教会の指導者たちは、この政府の要請を契機に教会合同にふみきり,ここに教団が成立いたしました。
わたくしどもはこの教団の成立と存続において、わたくしどもの弱さとあやまちにもかかわらず働かれる歴史の主なる神の摂理を覚え、深い感謝とともにおそれと責任を痛感するものであります。
「世の光」「地の塩」である教会は,あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ,キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。
しかるにわたくしどもは,教団の名において,あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを,内外にむかって声明いたしました。
まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。
心の深い痛みをもって,この罪を懺悔し,主にゆるしを願うとともに、世界の,ことにアジアの諸国,そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります。
終戦から20年余を経過し,わたくしどもの愛する祖国は、今日多くの問題をはらむ世界の中にあって、ふたたび憂慮すべき方向にむかっていることを恐れます。
この時点においてわたくしどもは、教団がふたたびそのあやまちをくり返すことなく、日本と世界に負っている使命を正しく果たすことができるように、主の助けと導きを祈り求めつつ、明日にむかっての決意を表明するものであります。
1967年 3月26日復活主日
日本基督教団 総会議長 鈴木正久
祈ります。
▼祈り
「私は戦いを喜ばない」とおっしゃってくださる神さま。
私たちは、すでに私たちの歴史において、大きな過ちを犯し続け、互いの命を奪い合う戦争を行ってきました。そして、今この時も多くの場所で多くの人間が戦いを続けています。
もうたくさんだと思っています。これ以上大切な命が人によって奪われるのを見るのは耐えられません。また、私たち自身が殺し、殺される状況に置かれることは絶対にやめなくてはなりません。
何より、小さな命、生まれたばかりの子どもたちさえも、暴力によって殺されることを容認することはできません。
どうか神さま、戦争を遂行する、また戦争を準備する政治権力者たちに、どうか悔い改めの思いを与えてください。私たちに戦争を避ける知恵を与えてください。戦争を止めるためにできることをする勇気を与えてください。戦争があってはならないとこの世に意思表示をする力を与えてください。
ここのいるひとりひとりの命の尊さを思いつつ、イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。
アーメン。
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