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私たちだけにしか通れない道を行こう

2022年5月1日(日)徳島北教会主日礼拝説き明かし
マタイによる福音書7章13−14節(新約聖書・新共同訳p.12、聖書協会共同訳p.11−12)
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記事の末尾に動画も収めております。

美しい光景

 皆さんおはようございます。YouTubeライブでご参加の皆さんもおはようございます。
 今日は先日、4月17日の日曜日に行われた徳島北教会の総会で承認された、2022年度の教会指針、「私たちにしか通れない道を行こう」という言葉を巡ってのお話となります。そして、引用した聖書の箇所は、マタイによる福音書7章13節、「狭い門から入りなさい」から始まる言葉です。
 この言葉が書かれているのは、いわゆる「山上の説教」と呼ばれている部分の終盤です。
 イエス様は、いろんな所でいろんなお話をしたんでしょうね。ガリラヤ地方で。特にガリラヤ湖の湖畔の丘の上で話すことが多かったらしい。
 ガリラヤ湖というのは、面積が琵琶湖の3分の1くらいで、湖の周りは平坦ではなく、湖を囲んだ盆地のようになっていて、岸辺からすぐに小高い丘に登ることができます。そういった丘の上でイエス様は人々を教えたんですね。ですから、「山上の説教」山の上の説教と言いますけれども、実際のところ、小高い丘、丘陵地帯のようなところで、イエス様はお話になっていたわけです。
 それはとても美しい光景だったと思うんですね。ガリラヤの湖畔の丘では、赤や白、紫など、色とりどりの花を咲かれた木がたくさんあって、その花が咲き乱れて非常に美しいんですね。その美しい木々の間で、イエスを囲んで人々が腰を下ろしている。その人々に向かってイエス様が語りかける。非常に、ある意味「絵になる」、今風に言えば「ばえる」場面だと言えます。

山上の説教

 イエス様はそのようにして、ガリラヤ湖畔のあちこちの丘で教えられたのでしょうけど、マタイによる福音書では、その教えを5章から7章にまとめるように編集しています。それがいわゆる「山上の説教」(昔は「山上の垂訓」と呼ばれていましたけれども)まあ「山上の説教」と呼ばれる部分です。
 ですから、一箇所でこんなにまとまった教えを一気に語られたのではなくて、マタイさんがイエス様の教えの代表的なものを集めてきて、ここでわかりやすくまとめたと考えられます。 
 それでここには、印象的なイエス様の言葉、よく知られた言葉ですね。たとえば「心の貧しい人々は、幸いである(マタイ5.3)とか、「平和を造る人々は、幸いである」(同5.9)とか、あるいは「敵を愛しなさい」(同5.14)とか、「人を裁くな」(同7.1)、そして非常に有名な「求めなさい。そうすれば。与えられる」(同7.7)。それに続いて、今日私たちが読んだ「狭い門から入りなさい」(同7.13)という言葉が続きます。
 それからこの山上の説教のなかに、これは6章の9節以降ですけれども、私たちが毎週唱えている「主の祈り」も収められています。

狭い門から入りなさい

 それでこの「狭い門から入りなさい」という言葉ですが、これ、私が勤めている学校では「求めなさい」に続いて、よく引用される聖句です。教員が使いやすい言葉なんですね。
 教員が好きな聖句というのは、他にもいくつかあって、たとえば「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出す」(ローマ5.3−4)という言葉はよく使われます。それから、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3.13−14)といった言葉ですね。
 「求めなさい」、「忍耐を生み出す」、「目標を目指してひたすら走れ」といった言葉が好まれるところに、学校の姿勢とか体質がよく表れていると感じられるのではないかと思います。聖書の言葉で生徒さんたちに気合を入れようというわけですね。
 そして「狭い門から入りなさい」ですが、やはり「よりしんどい道を行きなさい」という意味に解釈されているわけですね。「安易に楽な道を通ってはいけない」という意味ですね。
 けれども、全体を読んでみます。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない」(マタイ7.13−14)と書いてあります。
 「広々とした門があって、そこから入る者が多い」と書いてあるということは、広い道を通る者は多数派なんだということを言っているわけですね。そして「命に通じる門を見いだす者は少ない」ということは、命の門に通じる道を通る者たちは少数派なのだと言っているわけです。しんどい道を通りなさいという意味とは必ずしも限りません。
 あるいは、それは単にこの道を見いだす者は、単に少数派であるというだけではなく、それは自分だけの道、自分たちだけの道なのだ、と読むことも出来ます。

私たちにしか通れない道

 このような読み方のヒントを与えてくれたのは、私の友人の牧師で、教会付属の幼稚園の園長をしている人が書いていた文章でした。
 その人が言うには、「狭い門」というのは、競争率が高いとか難易度が高い中でやっと入れる関門とうことではなく、「ひとりひとりの姿のあるがままの姿に形整えられた、その人のサイズの門」であると。
 自分の園はそんな門をくぐるひとりひとりの子どものあるがままの姿を大切にします、と園だよりの中に書いたというのですね。
 様々な人間のいる多様性の中で、自分しか通ることのできない問がある。ひとりひとりのあるがままの姿を大切にすることで、おのずと人権の感覚も生まれてくる。ひとりひとりの子どもが自分だけの道を通って、キリストの門をくぐってゆくのだと言っているのですね。
 そこで、私は「ああ、『狭い門』とはそういう読み方もあるのか」と感心しました。
 そして、今度は学校の生徒さんたちに「この『狭い門』というのは、こういう2つの解釈の仕方がるけれど、みんなはどう思う?」とアンケートのようなレポートを書いてもらうと、7割から8割の子が「ああ、ほっとした」と言います。「立派な人間になるためには、しんどいことをしなければならないんだ」という考えに疲れてしまっている子が多いのだと気付かされます。
 その一方で、2割から3割の子たちは「自分は苦労する道を常に選んできた。だから今の自分があるし、その方が自分の成長になるし、実際自分自身のためになった」と言います。
 これはどちらが正しいということではなく、それぞれの生き方に対する感覚があって、これも多様な形があっていいのだと思います。困難さが人を育てるということは確かにあります。だから、そういう聖書の言葉の解釈もあっていいわけです。
 けれども、「小さな自分だけにしか通れない道がある。他の人には通れないような、自分だけの個性的な道だ」という読み方もあるんだよと伝えた時、ホッとした子どもがいることを知って、私自身もホッとしました。

狭い道を行く教会

 ここで私たちの教会が進む道についても考えてみたいと思います。
 私たちの教会もかなり個性的な教会です。牧師を始めとして多くの会員が県外や海外に住みながら、インターネットを経由した遠距離礼拝を当たり前のように行っている。そういうことに全く抵抗なく順応できたのはこの教会の特質でしょう。
 また、牧師にすべてを任せるのではなく、信徒が自立した教会であること。信徒主体によって教会の運営がなされてゆくことも、この教会の特質だと思います。
 また、あるいはこの教会の個性は、フリー聖餐(またの名をフルオープン聖餐)を行うところにあるとも言えます。この形の聖餐を行う教会は少数派であり、このために教会は地域の他の教会から疎外感を味わわされることになったし、この聖餐に賛同する牧師である私も、当初は随分な言われ方をした覚えがあります。
 けれども、私がこの教会の持つ最も強烈な個性とは何かと思うのは、この教会に集う人が、教会員であるとか無いとかにかかわらず、強烈に個性的な人たちだということです。教会に集う人、つながっている人の個性が集まって、他には無い教会の個性を作っているということです。
 そんなことはどこの教会も同じじゃないかと思われるかもしれません。それはそうかもしれません。しかしとにかく、この教会につながるひとりひとりの個性は、他には無いものであり、他にはない固有の強烈な教会の個性を形作っています。この教会は、このメンバーでしか作れない教会なのです。
 狭い門、狭い道というのは、自分たちにしか通れない、自分たちの姿に形整えられた通り道だと、聖書を読むことができます。
 そして、この自分たちにしか通れない道を通って、私たちは神さまから与えられた個性をより深堀りしてゆくということでよいのではないでしょうか。
 自分たちにしかない個性を深堀りしてゆくことで、私たちらしい生き生きとした命に満ちた群れになっていこうという思いを、今日の「狭い門」の聖句から教えられ、この新しい2022年度も旅の道行きを共にしてゆきたいと思います。私にしか通れない道、私たちにしか通れない道を行きましょう。
 祈ります。

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