見出し画像

「自分を出すこと」にびびってる話

隣の部屋から抑えることなく泣いている声が聞こえた。明くる日には大きな声で楽しそうに笑う声が聞こえる。彼女は感情を表すことにストレートだ。


私は今シェアハウスに暮らしている。

「隣の部屋から声が聞こえてきて迷惑してるって話?」と思う人もいるかもしれないけどそうではない。

彼女が隣に越してきた始めの頃こそ少し驚いてたけども。最近はそれよりも、「こんな素直に感情出せててすごいな」と感心すらしている。


なんだか歳を重ねるにつれて、ストレートに表現することがなくなった気がする。この感覚は分かる人もいるかなと予想する。

特に社会で仕事をする上で感情的な態度はタブーというか、マナー違反のような意識が大きいのかもしれない。

今日、隣の部屋から泣き声が聞こえて心配になりながら思い出したのだ。

「いつもすごい一定ですよね!」

仕事中に後輩から言われたこと。何のことだ。「え」と反応した声はひどく間抜けだった気がする。

後輩は「悪い意味じゃなくて!」と慌てて続けた。彼女から見る私は、テンションが常に一定でどんな状況でも冷静で落ち着いているように見えているらしかった。

「喜怒哀楽があんまりないっていうか、だから気になるなーと思ったんです」と最後に言われた。そんなことないよ、とかそんな感じで返したと思うけど、なんとなく心にずっと引っかかっている。


たしかに、小さい頃はもっと感情に素直だったと思う。

自分でも驚いたのは、実家でアルバムを開いて家族と盛り上がっていた時。写真にうつる幼い自分はいかにも天真爛漫で活発な子どもだった。

当時、自分は陽キャとは相容れない根暗陰キャと認めていたとはいえ、「この明るさどこで置いてきた?」とひたすら疑問に感じたのを覚えている。


なんで、あの小さい頃の天真爛漫なまま大人になれなかったんだろう。私は隣の部屋のあの子が羨ましいと思った。後輩にいつも冷静って言われたときは違和感があった。

でもたしかに、あえて、抑えようとした時期があったことを思い出した。きっかけがなんだったのか思い出せないけど、「怒ったり悲しんだりってエネルギー使うな」と考えたことがある。

たぶん、そうやって感情に振り回されるのが嫌になって、自分を保つためにコントロールしようとした、気がする。

コントロールというよりかは感情に蓋をするというか、そういう気持ちになっても深く考えず気づかないふりをするとか、そういう感覚のほうが近いかもしれない。


でも今は、変わりたいと思った今、私が目指したいのは感情表現が豊かな大人になった。

そうやって過ごす人がすごく輝いて見えて、憧れたから。「私もこうなりたい」と思える大人は、みんな仕事だけじゃなく自分自身のことにも真剣に映った。

きっとそうやって生きたほうが楽しいんじゃないかと思えたのだ。


簡単には思い出せないくらい、ずっと「自分」を出すことに勇気がなかった。今もそうだ。

その壁を越えないと私のほしい世界は手に入らない。

自分を素直に表現できる人になりたい。ゆっくりでもいいから、変わっていける方法をみつけていきたいと思う。

いいなと思ったら応援しよう!