その日、全世界で(第3章)
第3章 謎のイライラ
それから、1か月が過ぎ、また由香から連絡があった。今度はココと三人で会わないかという連絡だった。特に用事も予定もないくせに、仕事が立て込んでいるから無理だと連絡してしまった。私は完全に、彼女たちから逃げている。自分でもそれが良く分かった。
それから数日後、義母の田村慶子が骨折していると分かって、大急ぎで入院、手術となった。いつの時点で骨折したのか、もともと骨折していたのかはわからないが、なんとか無事に手術も成功した。祖母と同じ圧迫骨折だった。圧迫骨折は見逃されることが多いそうである。
義母の入院・手術は順調に進んだが、次はリハビリセンターに移る用意や、市役所に行って介護申請をするなど、またもやバタバタの日々が続いた。義母の家に行き、リハビリに必要なものを揃え、家の間取り図などをリハビリセンターに提出しなければならず、連日仕事のできない日々が続いた。お金はないし、大学の授業料の締め切りは迫るで、八方ふさがりの毎日を送る中、ほぼ毎日由香から携帯メールが届いた。
義母の骨折がわかった日も、由香からメールがあり、少しの時間でもいいから会えないかと来たので、この現状を話し、しばらくは無理だと思うと返した。すると、今まで以上に毎日何回もメールがくるようになった。
―大丈夫?お義母さん大変だね。ココと二人で祈っているからね
―教会の人たちも祈ってくれているからね
―何かできることあったらメールしてね
―みゆの体調が守られるよう祈っています
などなど。毎日が祈りのメールだった。ありがたいけれど、私は彼女たちの心からの親切心を素直に受け取ることが出来ず、逆になぜかイライラしていた。
義母の家に行き、リハビリに必要な靴を玄関で探していたら、サラリーマンではなさそうな人が訪ねてきた。用事を聞くと近所の教会の人で、前から義母と何度も話をしていて、また来ますと言っていたので来ただけだという。目じりも眉毛もすべてが下がっていて、とても優しそうな人だったが、義母の現状を話して、私は早く帰っていただこうと、愛想なく忙しそうにふるまった。
その男性は、私の態度に気分を害することもなく、にこやかに自分の名刺と教会の冊子のようなものを差し出し、「慶子さんに渡してください。私たちは、慶子さんのために祈りますとお伝え下さい」
というので、頭だけ下げて、それを受け取り、帰っていただいた。
以前に義母の家で見たことがある教会の冊子と同じ教会の人だった。何度も義母を訪ねて話をしていたようである。私は、このような宗教の勧誘が大嫌いだ。だから、昔からまったく話を聞かずに帰っていただく。家族からは、もうちょっと優しく接したらと言われるのだが、優しく接すると脈ありと思われて、しつこく何度も勧誘されるのが嫌なのである。だから、わざと冷たくあしらうのだが、家族は誰もそのことを理解してくれない。
義母に渡してくださいと書かれた、教会の冊子を何の気なく見てみると、
と書かれていた。意味はよく分からないが、とても大きな文字で表紙に書かれていたので、いやでも目に入った。私はその冊子をダイニングテーブルの上に置いて、すぐに探していた靴を袋に入れて、家に戻った。
数日後、義母が手術し、入院していた病院からリハビリセンターに転院する時が来た。コロナで面会謝絶だったので、義母の顔を見るのは久しぶりだった。
義母は家にいる時と違って、顔色もよく、とても明るくイキイキとしていた。1か月半の入院生活のお陰でたばこも自然にやめることが出来たからだろうか。それにしても、規則正しい食生活がこんなにも人の表情を変えるのだと驚いた。
家で一人暮らしをしていた義母は、好きな菓子パンやスーパーの総菜ばかりを食べ、コーヒーを毎日数回飲み、たばこを一日中吸う日々だった。コロナを気にして外出も控え、家の中ばかりで過ごし、太陽にあたることもなかったので、それも体を悪くした原因なのだろう。
別人のようになった義母をみて、病院のような規則正しいバランスのとれた食事の大切さを改めて思い知らされた。主人と結婚して以来20年以上義母を見てきたが、今が一番顔色が良く、肌つやもいいのだ。私は失礼なくらい義母の顔をしばらく眺めていた。