
震洋特別攻撃隊・第146隊基地跡で祈る
9月4日は宮城県の古川での講演会であった。テーマは神道指令によって失った日本の心。その前にどうしても行っておきたい場所があった。それは松島にある震洋隊の基地跡であった。この場所で祈りを捧げたかったのである。
大東亜戦争の半ば、『震洋特別攻撃隊』という秘密特攻部隊があった。長さ5メートルほどのベニヤ板製のモーターボートで敵艦に体当たりする水上特攻部隊である。太平洋を震撼させるという意味で、『震洋』と名づけられた。
各地に秘密配置された114個の震洋隊の中で、最後に配置されたのがここ宮城県東松島市宮戸大鮫の第146隊であった。1945年7月25日のことである。出撃することなく終戦を迎えたが、その跡地は 今も壊されることなくひっそりと存在している。
秘密配備であったから最後まで地元の漁師にも知らされることはなかった。基地にたどり着くには長い暗闇の隧道をくぐり抜けなければならない。だから戦後も人々が近づくことはなかった。


基地跡には海に向かって出撃用のレールが二組敷かれたままになっている。それはあたかも鉄道の線路が海に向かって伸びているようで、誰ともなく銀河鉄道のモデルになった場所だと語り継いでいた。隧道の近くには船体を隠すための奥行き30メートルほどの横穴が十本ほど存在する。ここにには二人乗りの五型震洋艇が配備された。

船首には250キロの爆薬を搭載。量産を可能にするために船舶用エンジンではなく4トントラック用の自動車エンジンを動力源とし、船体は薄いベニヤ板でできていた。ベニヤ板は非常に弱く、訓練時や乗船時に割れる船体も多数あった。
自動車用のエンジンだったから水をかぶれば動かななくなる。ベニヤ板で船体が軽いので横波を受けるとたちまち沈没する。もちろんエンジンの冷却機も存在しないから、エンジンが加熱すると爆薬や燃料タンクに引火する。フィリピンのコレヒドール島に配備された第9震洋隊で24隻が爆発して100名が死亡した。奄美大島に配備された第44震洋隊でも爆発事故で約30名の死亡者を出している。

操作マニュアルでは目標の10メートル前でハンドルを固定して脱出することになっていた。しかし、現実的には操縦士が脱出すると船体が左右に振れて目標に突撃することが不可能となる。結局脱出など全くできない設計になっていた。連合国軍では『自殺ボート』という名称で呼ばれていた。実証検証を怠った設計ミスの兵器だったのである。
搭乗員として集められたのは、予科練を卒業したばかりの若者たちであった。戦闘機乗りを志し、激しい訓練を積み重ねていた彼らを待っていたのは、今にも壊れそうなベニヤ板製のモーターボートだったのだ。それでも彼らは御国のために尊い命を捧げたのである。
終戦時には本土決戦に対する備えとして6200隻が完成し、4,000隻近くが実戦配備されていた。震洋の体当たり攻撃で沈んだ連合軍の艦船は、アメリカ側の資料によれば4隻。その一方、命を失った震洋隊員は、基地隊員も含め、2,500人にも上る。出撃命令を受け出撃したのは、フィリピンのコレヒドールに進出していた六隊と沖縄本島金武湾岸の二隊だけである。あとは上陸米軍との陸戦に巻きこまれた。爆発事故や空襲などで、多くの若者たちが敵艦に突入することなく命を落としていったのである。
大東亜戦争とは何であったのか。来年2025年は戦争終結から80年となる。命を捧げた英霊に深く感謝し、平和な未来への実現へと思いをつなげていかなければなるまい。