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掌編小説「聴覚過敏の僕は自分の耳を削ぐ」
雑居ビルの5階。エレベーターに乗り込むと、息をゆっくり吐いた。
入社試験を受け続けて30社目。試験をようやく突破し、僕は30代になってやっと、正社員という肩書きを手に入れることができた。
着慣れないスーツと買ったばかりの革靴。まだ入社1ヶ月。僕は、自分がこれまでとは別人になったような感覚と、新しい世界への期待と緊張が入り混じった妙な気分でドアを開けた。
新しい環境へは、そうすぐに慣れることはない。
「おはようございます」
自分のなかでは、いつもより大きな声で挨拶をしたつもりだったが、出てきた声は意識したものとはかなり違っていた。(小さかったな……、緊張しているせいだろう)
室内を見渡すと、方々から僕に返ってくる挨拶たちに、少しだけ安心した。僕の仕事はパソコンスクールの利用者に、パソコン操作を教えることだ。操作を教えるといっても、高度な技術を教える必要があるわけではない。
たとえばパソコン画面がフリーズした際の回復の方法や、コピペの方法など、普段パソコンに触り慣れている者であればそう難しいことを教えるわけではなかった。
僕はパソコンが好きなのと、ガヤガヤした騒々しい環境が苦手だったので、この二つの条件を満たす仕事を探し今の職を得ることができた。なので、この職場は僕にとって最高の環境であるはずだと見込んでいた。
僕はカバンを所定の位置におき、席についた。手早く自分のノートパソコンを開き、勤怠管理ツールに打刻をし、朝礼が始まるまで待つ。
やがて別室で朝礼があり、室長から指示命令が出されたあと、僕は教室の前方の席にて生徒が教室に入ってくるのを見守った。
「おはようございます」
僕よりいっそう小さな声。彼女はスクールの生徒で、他の生徒たちから”サーヤ”と呼ばれていた。
「おはようございます」
僕は彼女に笑顔で挨拶をした。小柄で痩せた彼女は僕にちらりと見向きもせず、自分のパソコンが置いてある席にいそいそと移動した。いつものことだ。
教室には生徒が十数人ほどいて、顔ぶれはだいたい同じであり、年齢や職業はバラバラだ。一番多いのは30代から40代といったところか。職業訓練の意味合いが強いスクールでもあるので、働き盛りの年代が技術向上のために改めてパソコンを習いにくるといったスクールの特徴もある。
机には会社が準備したノートパソコンが整然と配置され、スクールに籍を置くとログインパスワードがあてがわれ、パソコンは生徒各々の所有となる。
サーヤは見た目から判断して、20代前半あたりといったところか。若い彼女にしては髪にカラーリングをするわけでもなく、服装は厚めの上着に茶色のパンツスタイルで、どちらかといえば地味なほうだった。
僕と年が近いと思われる生徒の山下という男は、休憩時間になると僕によく話しかけてきた。なんということもない他愛ない会話だが、おしゃべりが好きな奴なんだと思う。
生徒が挙手すると僕は静かに席をたち、生徒の机へ向かう。生徒の質問はごく簡単なものから、複雑きわまるものまで生徒のレベルに応じて様々だが、複雑なものに関しては僕より詳しい同僚がいてくれるおかげで苦労することはなかった。
僕は、生徒の一挙一頭足に十分気を配っていれば良かった。優しい声色で、困りごとを解決するパソコンの先生。
休日は一般的な会社より少ない会社だったが、僕にとっては正社員という肩書きこそが重要であり、誰にも頼らず独立して生きるためには休日の少なさなど取るに足らない問題に思えた。
休憩時間に入った直後、山下が僕に話しかけてきた。
「なんか今日、だるいっすね」
「え?山下さん、体調悪いの?」
「だるいのはいつものことです。今日は特に。パソコンの速度も遅いし」
「ああ、はい。今日は天気悪いですもんね。気象環境が通信速度に影響するのは、まま、あることです」
「ふーん。先生、目の下にクマあるよ。ちゃんと寝てるの?」
山下は僕にあまり敬語を使わず、ため口で話す。僕は思わず手を眉間にあてがった。入社して1ヶ月になるが、緊張の連続なのか熟睡できていない気がした。
帰宅後は夕食をしっかり取り、湯船に15分ほど浸かり、夜9時には床につく毎日だ。健康に気を使い、規則正しいルーティンをこなしているはずなのに、僕の身体は日々の疲れを両肩に重石のように載せ続けている感覚だった。
山下の言葉に考えをめぐらせるうちに、時計の針が休憩の終わりを指し示した。換気のためのドアをしめ、僕は自分の席についた。同時に生徒が挙手をする。僕は急いで生徒の元に足早に向かう。その繰り返しだ。
そのとき、僕の背後で教室中に大声が響いた。
「あーっ!また、やったよ」
「友井さん、どうかされましたか?」
「いや、作業ミスが続いちゃっててね。どうも、キーの位置が納得いかない」
友井は最近スクールにやってきた40代の男性。仕事でパソコン作業が必須の配置転換により、会社から薦められてやってきた。学びに自主的な意図をもってきたわけではないので、正直なところ彼自身がこのスクールに対しあまり良い印象をもっていないことは明らかだった。しかも地声が太く、友井の会話はこの狭い教室内のどこにいても聞こえてしまうのだった。
友井の声がすると、僕は耳の奥から眉間にかけて鋭い稲妻が駆け巡るような軽い痛みを得る。これは、僕が幼いときからそうだった。
「聴覚過敏じゃないの?」
学生時代に友人からそういわれ、友人たちは僕の前で話すとき、さりげなくトーンを落とし静かに話すようになった。そうかもしれない。
僕は昔から声が大きい人は苦手だったし、初対面で少し会話をして音の危険域を察知するや否や、僕はその人から遠ざかっている。痛みを得る身体感覚は、努力ではどうにもならない。
だから、社会人になって多種多様な人に混ざり合い雑多な音が飛びかう職場で、何か業務に没頭するということは、僕には到底できる芸当ではなかった。ひどいノイズが毎日耳に入り、痛みを引き起こすのだ。
人の話し声、歩く音、誰かを呼ぶ声、電話の着信音、ドアの開閉音、訪問者のノック音……。音の情報が洪水のように僕の耳に押し寄せ、その音らは眉間をとおって脳へ侵入し、電気ショックをかけられるかのように僕の脳を麻痺させる。何も考えられないくらい集中できなくなり、ひどい疲れとなって僕を蝕む。
声量が大きい人など、もってのほか。どうか声をもっと小さく、トーンを落としてくれないだろうか。
友井の横に立ち、僕はキーボード前での指の動かし方をゆっくり教えた。
「ほら、この手順だとスムーズにいくでしょう」
「いや、それはわかっているんだけどね。このキーがもっとこっちにあればいいのに」
「キーの位置は変えられませんよ」
友井はむっとして、ただでさえ大きい彼の声量がさらに膨らんだような大声で、
「それはわかってるんだって!位置がどうにもこうにもならないことくらい!……あぁ、ごめん。少しイライラしてしまっていたよ」
友井は僕の表情に何かを感じたのか、すぐに謝った。同時に、僕の耳の奥で何かが破裂した。
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僕は急いで席を離れ、カバンにしまっていた小刀を引っ張り出し、片方の手で自分の耳を押さえながら押さえながらもう片方の手で耳を……。周りの人が僕を押さえつける時もなく僕は目標除去に成功し、床の絨毯は血で真っ赤に染まった。
かつて身体の一部であったそれが、なんの役割も意味ももたず床に転がっている。僕はそれを見て、これでやっと”解放”されたのだと安堵するのだ。
「大丈夫、また何かあれば呼んでくださいね」
想像はすぐにかき消され、僕は友井に穏やかに返事をし、自分の席へと戻った。
それから2ヶ月が過ぎた。仕事は少しずつだが慣れ、他の業務も任せられるようになったが、それは期待であると同時に負荷であるとも感じていた。
正社員なのだから責任を伴う仕事を任されるのは、当然のことだ。僕は自分にそう言い聞かせ、今日も古ビルのエレベーターボタンを押す。
相変わらず友井の声に、日々脅かされ続けた。だがやがて、それも終わる。友井はパソコン操作を一応マスターできたということで明日、会社に戻るそうだ。僕は心の中でひそかにカウントダウンを始めていた。そんな浅はかな考えを巡らせる日々の繰り返し。だが、そんな僕のかすかな希望を打ち砕く事件が発生した。
「ちょっときみ、なにしてんの!」
静かな教室に響き渡る友井の怒鳴り声。みると、友井のパソコンを”サーヤ”が手に持っている。友井が教室に来る前に、パソコンの配置席を移動させようとしたらしい。サーヤは明らかに狼狽し、硬直していた。
僕は友井とサーヤの間に割って入り、友井に頭を下げた。
「友井さん、席は自由でかまわないのですが、彼女があなたのパソコンに触れ移動させようとしたことは僕が謝ります。理由があるはずです。ね、サヤさん」
サーヤは黙っている。
「なんでこの人、なにも言わないのかね。人の物を勝手に触ってさぁ。頭おかしいんじゃない」
友井はサーヤを睨みつけながら、パソコンが元あった場所の席へと着いた。
彼女は置き人形のようにその場に立ち竦み、震えていた。
そんな彼女に
「サヤさん、びっくりしましたよね。休憩室で少し落ち着きましょうか」
と誘導した。
休憩室は教室内の隅の一角にあり、パーテーションで区切られている。小さな机と、背もたれのついたクッション椅子が一つずつ。パソコン作業に疲れた人が休むためのリラックスルームといったところだ。
サーヤはクッション椅子に深く腰を下ろすとうつむいたまま目をつむり、肩で息をきらすように浅い呼吸を繰り返した。
「サヤさん、水をもってきましょうか」
尋ねると、彼女は首を横にふる。なぜだか僕は、このまま彼女をひとりにしてはいけない気がした。いったん教室にもどり同僚に10分ほど席をあけることを伝え、再びサーヤのところへ戻ると彼女は机に突っ伏していた。
「サヤさん?」
彼女の耳元に声をかける。かすかな音が、彼女から漏れ聞こえてきた。
「……」
「え?なんでしょうか。すみません、もう一回話してもらえますか」
「……」
耳が敏感な僕でも、彼女の音をなかなか拾えない。
「何度もすみません、もう一回だけ……」
僕は全神経を集中させ彼女の声に耳をすませる。
「なんで……るの」
「ん?」
突然顔を上げ僕を真っ直ぐに見つめた彼女の次の声は正確に、はっきりと僕の耳に届いた。
「あなた、なんでここにいるの?」
一瞬、彼女がなんのことを言っているのかわからず僕は混乱した。この休憩室から出て行ってほしいということか?それとも事態の収拾をうまくつけられない僕の仕事ぶりに落胆しての、言葉だろうか?
そのとき、耳からどろっとした生ぬるい何かが流れ出るのを感じた。慌てて耳に手をあてるが、流れ出るものはとめられそうにない。手をみると、赤黒い付着物がついていた。黒いものは古くなった血の塊のように思える。
そうか。ここ数ヶ月間の耳にたまった血が、今こうして、やっと外に出てきたのか。血にまみれた手をみているうちに、僕の視界はみるみるぼやけていった。彼女は僕に、薄いブルーのハンカチを差し出した。僕はそのハンカチで、あふれ出る涙をぬぐった。
「私も音を拾いすぎるから、友井さんの席を自分から離したかったの。でも、もういいの。それより、あなたは大丈夫?」
さっきよりも細く小さい声でそういいながら、彼女は僕を心配そうに、じっとみつめた。僕の耳のこと、気付いていたのか。
「サヤさん、ありがとう。まさか共感してくれる人がいるなんて、思いもしなかった。どうやったって苦しさのほうが大きいこの世界で、同じように生きている人がいるって、知らなかったから」
「うん、私も」
「ハンカチ、洗って返すよ」
「いいよ。持っていてくれても。餞別よ」
僕は声をたてずに肩を揺らして笑った。サーヤも、顔をくしゃっとして頬を赤らめながらクスクス笑った。涙はいつのまにか乾き、サーヤの顔をはっきり認めることができた。僕はサーヤをまっすぐに見つめ、「ありがとう」
と、心をこめて伝えた。
それから僕はまもなく、パソコンスクール会社を退職し、遠縁の親戚が営む田舎の会社に就職した。果実の栽培と収穫から農協への出荷が主な仕事だが、僕の耳に届くものはたいてい、山林の風の音と、どこからともなく現われる猫の鳴き声。
「おーい、こっちの果実箱を運ぶの、手伝ってくれ」
そして遠くで、人の声。
「はーい、いま行きますー」
僕はポケットにあった薄いブルーのハンカチで汗をぬぐい、美しい旋律のような風に身を任せながら、林道を走っていった。