独居の独り言(鴨長明の無常観と・・)
無常観に似せて
この国は大陸の果て、どん詰まりの地理的位置づけにあると言われたのも昔々の話と憶うようになった。
しかし、依然として極東(本来、欧米人からの言い方)の島国であることは変わらないのである。歴史的にも、日本にはこ縄文前期頃より他地域から何らかの事情で日本迄移動してきた人々はここからさらなるイーストは地球最大の海洋太平洋であり、さらにイーストの地へ移動することは極めて困難でここ以外に往くことが出来そうもないとあきらめて住み着いた民族かもしれない。このこと,この気性は現代に至っても根底は変わらないようである。国外に越えて先端的に自ら気概を持って生き抜くパワーが周辺国の国民より比率的に少ないのである。
少なくとも18世紀後半までは、言うまでも無いけれど・・。近現代のように移動手段が発達していなかったことは明らかである。民族性からすれば、北方系、南方系、大陸系、などの民族・人々が、やむを得ず、難民的、理想郷的意識、行動の結果この島国に渡ってきたことは歴史的にもうなづけるこの国に移住定住すると進取果敢な民族性が影を潜め、次第に温和で消極性な素性になるようである。その点非常に平和的人間性を示しやすくなってしまうこれはしたがって古代から培われた民族性となったのではないか、これを揶揄的表現で「島国根性」などと言っているのだが・・・。例えば、ある人間が世俗、現世を離れ、隠遁、隠棲、などと言って人里離れ一人住まいする。など全てではないが伝統的に世捨て人と言っている。あの「方丈記」の鴨長明それをどうあれ実践したのである。彼の隠遁は自ら世を儚んでその挙に出たようであるがとても、俗世間を離れて、淡々と隠棲したとは思えない。
彼は自ら希望、欲求した地位などに就くことが出来なかったことが最大の儚さだったようである。
翻って我ロートル山住まい独居は自ら世俗から離れたいと念願しても、それは思い通りに行かない日々でもある。これも自らの「無常観」とでも言っておこう。
それに自らの本性だろうと思うが悲観的、あるいははかなさがあっても、常に八十路になっても、自らの期待感や楽しみを日々創造できるような生き方になっている。
何か不測な事態が起きることをも甘んじて受ける覚悟だけはしているけれどこれまでの過去の人生行で味わった結果であろうが・・・・。
自ら、かなり俗世間と離れた独居生活と思っているけれど、比較するのは烏滸がましいけれど、だから「鴨長明」の京都大原、日野への隠棲の心象が解かるような気がするのだが・・・。