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『龍が如く』シリーズ私感。私にとっての「任侠ファンタジー・アドベンチャー」 | 森田一郎の毎日戯文 #111

毎日戯文とは

ドーモ、森田一郎です。

本日の記事は、『龍が如く』シリーズについての私感を綴る、比較的ゲームライターらしい記事となります。最近、「うんこ」だの「ゴルフボールの孵化」だのたいへん知的な記事が続きましたのでね。

さて、まず前提として、森田一郎が『龍が如く』シリーズに抱いた第一印象は良くないものでした。というのも、森田一郎は「反ドンキ派」だったのです。

ドンキホーテといえば、森田とは相容れないウェイウェイブンブンのチョマテヨが湘南乃風しているチャラい連中の要塞というイメージでした。まあ現在でもその印象は一部において正しいとは思っているのですが、以前のような反感はありません。

そして、そうした「ドンキ系」のゲームの筆頭として認識していたのが『龍が如く』でした。たしか初代のリリースは2005年あたり。『メタルギアソリッド3』と発売時期が前後していて、にわかに話題になっている『龍が如く』を「ふん、まあライトゲーマーはその辺りでも遊んでれば」と、赤面を禁じえない見下し方をしていた記憶があります。

さて、時の流れというのはえらいもんで、あほの森田も見識が徐々に広くなり、「べつにドンキ系でもええやん、そういう文化なんやから」だとか「ゲームに出来の良し悪しはあっても貴賤はあんまりない」といった価値観が芽生えてまいります。

そうしているうちに、人気シリーズとなった『龍が如く』。自然と手が伸びてその魅力を理解した森田。現在では各シリーズのPC版にて「2周目」をプレイする気に入りようです。

そして、最近『龍が如く7』をプレイしたことで再確認したことがあります。それは、私が『龍が如く』シリーズを気に入っている本質的な理由です。

『龍が如く7』では、バトルのシステムが過去作のアクションからターンベースRPG風へとガラリと変貌を遂げました。しかし、その影響は私にとって予想外に少ないもので、「あれ、過去作もこんな感じじゃなかったっけ」と思うほどでした。

おそらく、その理由は、私が『龍が如く』に求めていたのがアクションゲームとしての楽しさではなく、「任侠ファンタジー・アドベンチャー」としての魅力だったからです。

もちろん、RPGシステムにがっかり来たプレイヤーもおられようとは思います。『龍が如く』シリーズに求めるものや感じる魅力は、プレイヤーそれぞれで違うとは思います。しかし、私にとって同作シリーズ作に求める魅力は前述の通り別の部分にありました。

まず、『龍が如く』シリーズのストーリー展開は突飛になりがちです。そこが遊ぶ人を選び、またプレイヤーを引きつける部分でもあるのですが、しばしばものすごいプロットホールが存在していたり、いわゆる「ご都合主義」や「超展開」と言われそうな展開が散見されます。

また、同シリーズは暴力団組織の描写について、どちらかというとリアリティよりも「ぽさ」や「動かしやすさ」を重視しています。なので、ファンタジー映画やいわゆる「ヒーローもの」を見るように「ああ、この世界のルールはこうなのだ」とチューニングを合わせないと、なかなか楽しむのが困難です。

しかし、その「突飛さ」あるいは「勢いの良さ」は、キャラクタービルディングについて良好に作用していると私は考えています。縦横無尽な物語とは対照的に、キャラクターの行動原理や性格については概ね一貫しており、またその内容も(森田にとっては)魅力的なものです。

そうした魅力的かつ力強いキャラクターたちに推進された物語は、たとえプロットホールがあっても、たとえ使い古されたトロープ(補足: 日本語でどう言うのかわかりませんが「お約束」あたり?)があっても、たとえ演出がちょっと変であっても森田を没入させるものです。

世間一般がイメージする熱い「任侠」と、リアルというより「ファンタジー」めいた世界観、そして伝説の極道やどん底の天パを操り駆け抜ける大冒険(アドベンチャー)めいたゲームプレイ。これが、私が『龍が如く』シリーズの根幹に感じる魅力であり、私が同シリーズを「任侠ファンタジー・アドベンチャー」と呼ばわる理由です。

かつての私のように何となく『龍が如く』に抵抗のある方は、心を広くして、キャラクターに着目してプレイしてみると、同シリーズを楽しむことができるかもしれません。

真島吾朗への愛を込めて。

またあした。

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