#3 制約が信仰心を培う
信仰心は、一朝一夕に培われるものではないと思います。(私自身もなかなか培われていません……)
では、どうしたら信仰心は培われるのでしょうか。
今回は、信仰心を培うことと、制約について考えていきたいと思います。
1.貧に落ちきるひながた
教祖の50年のひながたにおいて、教祖は、まずはじめに貧の底に落ちきられました。
そのことについて『教祖伝』には、
月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまにまに、
「貧に落ち切れ。」
と、急き込まれると共に、嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に到るまで、次々と、困っている人々に施された。
『稿本天理教教祖伝』p23
と示されています。
そして、この貧に落ちきられた理由として、
一列人間を救けたいとの親心から、自ら歩んで救かる道のひながたを示し、物を施して執着を去れば、心に明るさが生れ、心に明るさが生れると、自ら陽気ぐらしへの道が開ける、と教えられた。
『稿本天理教教祖伝』p23
とあります。
他にも貧に落ちきられた理由はありますが、上記のことから、教祖は、物を施して執着を去り、心に明るさを生み出し、自ずから陽気ぐらしへの道が開けるように、貧に落ちきるひながたを残してくださったのだと理解できます。
「執着を去り、心に明るさを持って、陽気ぐらしに向かって歩んでいく」ことは、信仰の上で土台となる部分ではないかと、私は考えます。
今も単独布教や布教の家で、にをいがけに励んでおられる方々は、まさに、教祖の貧に落ちきるひながたを通り、執着を去って、心に明るさを持ち、陽気ぐらしに向かって歩まれているのだと思います。
そして、私が布教の家を出られた方に話を聞かせてもらった時に、「布教の家での経験は自分の信仰の上で大きなものである」と、皆さん言われていました。
つまり、「執着を去り、心に明るさを持って、陽気ぐらしに向かって歩んでいく」ことが、信仰の上で土台となる部分をつくるのではないかと思います。
2.発展は制約の中で起こる
あるブログの記事に、
人は制約があるから、最適化を考える。
最適化とは、一定の制約のもとで任意の目的を満たす最適な条件を決定することである。
とありました。
また、良いパフォーマンスを出すには適当なストレスがある方が良いというのも、聞いたことがあります。
つまり、人は制約やストレスがあるからこそ、最適で良いものを積極的に見つけ出そうと考えることが分かります。
なんの制約もない時は、積極的に良いものを見つけようとはなかなか出来ないのが人間だと思います。
(私も、何もない休日の方がぼっーとしてしまうことがあります……)
3.制約が信仰心を培う
教祖は50年のひながたの中で、最初に貧に落ちきられました。それは、執着を去り、心に明るさを持って、陽気ぐらしへ向かうためだと示されています。
そして、執着を去り、心に明るさを持って陽気ぐらしに向かうとこが、信仰の土台の部分だと考えます。
また、人間は制約があるからこそ、積極的に良いものを見つけようと考えるのだと思います。
貧に落ち切り通るというのは、生活に制約がある中を通っていくことであり、その制約の中を通るからこそ、信仰の土台ができ、布教の家を出た方々のように、信仰の上で大きな経験になり、土台となるのだと感じます。
貧に落ちるとはいかないまでも、何かの制約の中で通るからこそ、信仰心が培われるのかもしれません。
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