#4 「理を振る」とは、親神様の心になること
信仰生活の中で一番信仰実践としておこなうものは、おつとめではないかと思います。
おつとめの中には、おてふりという要素があります。
教祖は、おてふりについて「理を振るのや」と仰せられました。
今回は、「理を振る」について考えていきたいと思います。
1.おてふりの史実
おつとめは、教祖が慶応2年に「あしきはらい」(第1節)のつとめの歌と手振りを教えられました。
次に、翌慶応3年に十二下りの歌を作られました。
そして、十二下りのお歌ができた時に、節と手振りを教えられた時の話が「逸話篇」に出てきます。
18「理の歌」
十二下りのお歌が出来た時に、教祖は、
「これが、つとめの歌や。どんな節を付けたらよいか、皆めいめいに、思うように歌うてみよ。」
と仰せられた。そこで、皆の者が、めいめいに歌うたところ、それを聞いておられた教祖は、
「皆、歌うてくれたが、そういうふうに歌うのではない。こういうふうに歌うのや。」
と、みずから声を張り上げて、お歌い下された。次に、
「この歌は、理の歌やから、理に合わして踊るのや。どういうふうに踊ったらよいか、皆めいめいに、よいと思うように踊ってみよ。」
と、仰せられた。そこで、皆の者が、それぞれに工夫して踊ったところ、教祖は、それをごらんになっていたが、
「皆、踊ってくれたが、誰も理に合うように踊った者はない。こういうふうに踊るのや。ただ踊るのではない。理を振るのや。」
と、仰せられ、みずから立って手振りをして、皆の者に見せてお教え下された。
『稿本天理教教祖伝逸話篇』18「理の歌」
このように示されており、つとめの歌は理の歌であり、理に合わせて踊るので、ただ踊るのではなく、理を振るのやと教え下さっています。
2.理を振るとは
教祖は、つとめの歌は理の歌であり、理に合わせて踊るから、ただ踊るのではなく、理を振るのやと教えて下さいました。
では、理を振るとは、どういうことでしょうか。
まず、「理」とは何か、『天理教辞典』では、「理」の意義は極めて深遠であり、これを定義づけることは難しいと説明された上で、
その基本的意味については、ほぼ次のように考えられる。
「理」は、「おさしづ」において多用される言葉であるが、「おふでさき」にも「この世は理でせめたる世界なり」(1号21)と述べられている。「理でせめる」というのは、親神の働きによって治めているということである。その親神の働きには筋道がある。この筋道が「天の理」あるいは単に、「理」と呼ばれるものである。
『天理教辞典』第三版
と、書かれています。
つまり、親神様の働きには筋道がある。その筋道が「理」と呼ばれているものであります。
これをもとに、理を振るとは、親神様の心になって、手を振ることだと考えます。
理を振るので、親神様の働きの筋道を振ることになります。
親神様の働きを分かるためには、親神様の心を分からないといけないと思います。
親神様は、人間に対して陽気ぐらしをされてやりたいと考えて、人間を導いて下さるのですから、その心を少しでも分かるように努力をしていくことが大事です。
そのような親神様の心を思い念じながら手を振ることが、理を振ることになのではないかと思います。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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