「文楽」という話
「文楽」という話
先日、文楽を楽しんできました。
といっても東京ではなく、大阪です。
というのも、文楽の発祥の地は江戸ではなく大坂で、国立文楽劇場は大阪の日本橋(にっぽんばし)にあります。
劇場の前には大阪の台所の黒門市場、ちょっと隣に行けば #でんでんタウン があります。
なお、でんでんタウンにあった喜多(きた)商店のキャッチコピーは「来た、見た、買うた(こうた)」です。
cf.
〝Veni, vidi, vici〟
ガイウス・ユリウス・カエサル「来た、見た、勝った」
さて、劇場につくと和服のご婦人の多いこと多いこと。みなさま上品であらせられます。
着流しに下駄という洒落(しゃれ)た男性もいます。
(観劇はイベントですからね。)
対して私はスーツです。
(着慣れているのが一番です。)
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今回は、国立文楽劇場開場40周年記念ということで気合いが入っています。
演目第1部は、日本人なら誰でも知っている『仮名手本忠臣蔵』です。
仮名手本忠臣蔵(かなでほんちゅうしんぐら)
大 序 鶴が岡兜改めの段・恋歌の段
二段目 桃井館力弥使者の段・本蔵松切の段
三段目 下馬先進物の段・腰元おかる文使いの段・
殿中刃傷の段・裏門の段
四段目 花籠の段・塩谷判官切腹の段・
城明渡しの段
『仮名手本忠臣蔵』は「かなでほんちゅうしんぐら」と読みます。これは、赤穂四十七士といろは歌(四十七文字)をかけています。
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「東西(とざい)東西(とーざい)」
幕が開けますと、黒衣(くろご)が「段(だん)」というそれぞれの場の名を述べます。
太夫(たゆう)の浄瑠璃(じょうるり)語りが始まり、三味(しゃみ)の音(ね)に、静止していた人形が黒衣(くろご)によって動き始めます。
太夫、三味線、人形の三組で三業(さんぎょう)と呼ばれます。この三位一体(さんみいったい)で一つの藝(げい)となります。
太夫と三味線は、客席から観て右の上手(かみて)で演じます。
舞台からちょっとバズれていますから、集中すると気にならなくなります。
上手(かみて)下手(しもて)は舞台では重要です。
上手に偉い人が座り、下手に下々(しもじも)が平伏するイメージです。
*
三業(さんぎょう)によって命を吹き込まれた人形(ひとがた)は、人を演じます。
名人ともなると、人形がフッと人と思えてくるから不思議です。
また、暗黙の了解として、黒衣(くろご)はそこにいないものという扱いです。
外国人はどうしても黒い衣装の人が気になって仕方ないそうですが……。#蝉の音
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〈大序 鶴が岡兜改めの段〉
鶴が岡というと、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)と思い起こせるでしょう。
その地で、兜改(かぶとあらた)めです。「改め」とは検証です。
八幡宮で、足利尊氏(あしかがたかうじ)が討った新田義貞(にったよしさだ)の兜がどれかを判断することになります。
というのも、新田義貞は清和源氏(せいわげんじ)の嫡流(ちゃくりゅう)です。バリバリの正統派で、その兜は後醍醐(ごだいご)天皇が授けたものでしたから、鶴岡八幡宮に丁重に納めよというのが足利尊氏の命(めい)です。
尊氏の代参として弟の左兵衛督直義(さひょうえのかみただよし)がその命を伝えます。
とはいえ、兜の数は四十七頭もあります。
「どれがどれか分からんなあ……取りやめたほうがよいのでは?」
とイチャモンをつけたのは、尊氏の執事の高武蔵守師直(こうのむさしのかみもろのお)です。
「ちょっと軽率すぎるのでは?」
と反論したのは、同席した桃井若狭助安近(もものいわかさのすけやすちか)です。
「尊氏公の御計略は、新田の残党を攻めずに降参させることでしょうに」
新田義貞(の兜、ひいては後醍醐天皇)に対して敬意をあらわすことで無血の帰順(きじゅん)をうながす算段です。勝ち戦と決まった訳ですから、掃討戦は避けたいのです。
「軽率だと? 義貞の死骸のとなりには四十七頭もの兜があったのだぞ。あやまって奉納すれば恥になるではないか!」
この場では、尊氏の弟の直義が一番偉いのですが、執事の師直の意見はもっともです。若狭助は桃井播磨守(もものいはりまのかみ)の弟なので、師直の意見を尊重しなくてはいけません。
「まあまあ、お二人とも。ここは直義公に意見を仰いではどうだろうか?」
そこで、伯耆国(ほうきのくに)の大名である塩谷判官高定(えんやはんがんたかさだ)が折衷案(せっちゅうあん)を出しました。
(いかにも日本っぽいです。)
上に意見を聞くとなれば、さしもの師直も従うほかありません。
直義が命じたのは、意外にも塩谷の妻の召し出しです。
「顔世御前(かおよごぜん)殿、もっと近くにもっと近くに」
女好きの師直が、美しい人妻を近くで見ようとします。
直義によると、塩谷の正室(本妻)の顔世御前は、前に女官だったのでその由来を知っているというのです。
「義貞殿拝領では、蘭奢待(らんじゃたい)という名香(めいこう)を添えて賜(たまわ)りました」
直義の許しをえて、顔世が述べます。
勅答(ちょくとう)は「人は一代、名は末代、すは討死せん時、この蘭奢待を思ふまゝ、内兜に焚(た)きしめ着るならば、鬢(びん)の髪に香(か)を留めて、名香薫る首取りしといふ者あらば、義貞が最期と思し召されよ」とのこと。
「さあて分かるかな?」
下心のある師直が、顔世を試します。
顔世が見事当て、兜は無事奉納されます。
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さて、鑑賞するのにいろいろ知識が必要です。
「忠臣蔵なのに鎌倉?」
江戸時代から上演しているので、当時そのままの設定では(幕府批判となり)当局に捕まってしまいますから、過去の話にしています。こうしたことを仮託(かたく)といいます。
室町幕府初代征夷大将軍足利尊氏なら誰でも知っていますから、仮託しても誰かは分かるのです。
劇中、切腹する伯耆国(ほうきのくに)の塩谷判官高定(えんやはんがんたかさだ)と敵役の高武蔵守師直(こうのむさしのかみもろのお)が登場します。
「山陰(島根)の大名ですが、塩谷(えんや)ですから(山陽)赤穂(の塩)の話ですよ」
とか
「高武蔵守師直(〝こう〟のむさしのかみもろのお)は吉良上野介(きら〝こう〟ずけのすけ)ですよ」
とか言いません。
暗黙の了解です。
「室町のお話です」
「もちろん(仮託ですね理解しています黙って鑑賞します)です」
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〈蘭奢待〉
名香蘭奢待(らんじゃたい)とは香木(こうぼく)の一つで、今は正倉院(しょうそういん)に納められています。
正式名称は「黄熟香(おうじゅくこう)」で、蘭奢待はその名に「東大寺」という文字を隠した雅称です。
(正倉院は東大寺にあります。)
cf.
https://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures/?id=0000012162&index=0
茶道華道と同じく、日本には香道(こうどう)という藝の道があります。
香道は香(こう)を〝聞(き)く〟ことを愉しみます。
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〈文様〉
江戸時代は、さまざまな文様(もんよう)がありました。
代表的なのは家紋ですが、それによって自分たちの社会的地位(ステータス)を誇示した訳です。
(私も紋付き袴くらい持っていますが、まあ着る機会はありませんね。)
これは欧州でも同じで、貴族にはその家の色や柄があり、その家柄の人は必ず身に付けています。
(まあ似合うというものもありますが。)
英国では紋章がそれにあたり、ウィリアム・シェイクスピアも自分で登録しています。
なお、近松門左衛門は日本の沙翁(シェイクスピア)と呼ばれていますが、百年を経て似たような作品を創りだしました。
cf.
『ハムレット』(1601年ごろ)
『曽根崎心中』(1703年(元禄16年))
また、文様といえば、スペインのアルハンブラ宮殿が有名です。
アンダルシアのグラナダの丘の上にある城塞の中は、幾何学模様のタイルで埋め尽くされています。
cf.
テッセレーション
アルハンブラ宮殿のモザイク模様から、マウリッツ・エッシャーの不思議な作品が生まれました。
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文楽の他に、能(のう)があります。
能は神事に近く、いたく高尚とされています。
文楽は人形を遣(つか)って人を演じますが、能は人が人形のように演じます。神の手の糸に操られているように……。
さて、能面の視界はかなり悪く、演者は篝火(かがりび)によって柱から距離をはかっています。
まあ大変です。
それと、能面は真正面から見ると斜に歪んでいます。これはギリシア文化の影響もありますが、また別の機会にしましょう。
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文楽・歌舞伎では客足が遠のくと『忠臣蔵』を演じたそうです。
とはいえ冬の話ですから、夏の当たり演目も欲しいところです。
それが四代目鶴屋南北の『東海道四谷怪談(とうかいどうよつやかいだん)』(1825年(文政8年))です。
実は『東海道四谷怪談』は『仮名手本忠臣蔵』のスピンオフです。
民谷伊右衛門(たみやいえもん)も、妻のお岩(いわ)の父の四谷左門(よつやさもん)も今は浪人ですが、元は塩冶(えんや)の家臣です。
隣の家の娘お梅(うめ)が伊右衛門に恋をして物語が始まりますが、お梅の祖父の伊藤喜兵衛(いとうきへえ)は高師直(こうのもろのお)が藩主を務める高野(こうの)の家臣です。
離縁して、敵(かたき)の家の家臣になろうとするのですから、伊右衛門の破滅は結果が見えています。
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なお、文楽や歌舞伎の題名が奇数なのは、儒教由来で偶数が二つに分かれるため凶事とされ、奇数を吉事としたからです。
文様を含め意匠とその数や、小道具などにも注視すれば、文化から嗜好が深まるかと。
たとえば、扇子(せんす)は急な場合、盆の代わりとして利用できます。
目下の者が上の者に、直接手渡しは不作法だからです。
(疫病の影響もあったのかも。)
手紙でもその風習は残っていて、医師の礼状には「御侍史(ごじし)」や「御机下(ごきか)」が遣われます。
侍史は貴人に侍(はべ)っている人ですから、その人に取り次いでもらう訳です。
机下は漢字どおり、直接お渡しするのはおそれおおいので、机の下におかせていただきますということです。
とはいえ扇子一本帛紗(ふくさ)一枚から、日本文化をから始めてはいかがでしょうか。