『壁のない部屋』《読切》小説
『壁のない部屋』《読切》小説
A-Room-Without-Walls
少女は壁のない部屋で育った。南の戸は生絹(すずし)の明り障子で広縁につづいていた。東は洋間の引き違い戸で洋間のダイニングルームに。西は襖で奥に床の間がある。北は東と同じ洋戸で書斎がある。とはいえ、少女の部屋から書斎に入ることはできない。天井までの書架が書斎の南に並べられていたから。
少女がもっと幼いころは引き違い戸を開けて音のない部屋に入ったこともあったが、頭の高さまで本が増えるにしたがって北戸は閉ざされてしまった。というのも無断で入って、本の場所を変えてしまったのを母に咎められたからだった。
少女の母は聡く、どこに何があるか覚えていた。時間は有限で「許可なく人の時間を奪うものは罪だ」と諭した。ベンジャミン・フランクリンの〈時は金なり〉という言葉をそえて。そして「一時の感情が人生を変える」と。
母は家事ができない人だった。特に料理が。少女が料理をすると「そんなところ似なくてもいいのに」と母はつぶやくのだった。それでいて掃除は好きで、埃があるのは許さない性分だった。
少女の部屋は卓袱台が一つあるだけで、他に家具はなかった。床の間の引出しに花瓶があるが、それを出すまでもなく庭には一年中花が咲いていた。
誰も庭の手入れはしない。月明かりに母は「最初に庭をつくった人が賢かったのよ」と言った。
眠るのに床の間の和室の押し入れから布団をだした。電灯を消すと、北の書斎の灯が木洩れ日のようだった。母が消すころには少女はいつも眠っていた。
ときおり夜に目覚め、まだ光があったなら書斎の机にふしている母の肩に毛布をかけた。本の重みで床がなり、書架がすこし震え「ありがとう」と言っているように思えた。
朝はいつの間にか一人ベッドで眠っている母をおいて、セーラー服の少女は学校に行った。朝食はとらない。朝は消化できない家系らしい。コンビニエンスストアでおにぎりかサンドイッチの昼食を買うのが日課だった。飲み物は熱い紅茶を水筒にいれていた。
料理ができなくても美味しい紅茶は簡単だった。
水道水2リットルをケトルで沸かして、火をとめて〈リプトン イエローラベル〉を1袋いれるだけ。ケトルに入ったままゆっくり抽出する。淡いストレートティーだった。
沸かしていれるだけだから手間いらず。驚くほど苦みもないし、砂糖やミルクも不要で美味しい。
二人ならケトル二つで十分だった。少女か母か、どちらか飲み干せば沸かす。
クラスのほとんどはお弁当だが、それで三人がいじめられた。
悪意の想像力がない人は、愚者である。
*****
少女は、はじめ、いじめられているのに気づかなかった。気づいたときには深い心の傷をおっていた。
家に帰ると、凹んだ水筒を洗った。床の汚れは学校でおとしたが、それでも気になって石鹸で洗うのだった。手も十分に洗う。
母に言うことはできなかった。手がふるえ、水筒がおちてより複雑に変形した。
母が出かけていて幸いだった。涙が止まらなかった。
夕飯は早朝開いていないスーパーマーケットの惣菜だった。
台所は惣菜を皿にうつす場所だった。お造りをそっと皿にうつす。九谷焼の色がはえる。
>食不要
>遅い
>泊まるかも
母からメッセージが届いた。「泊まるかも」というときは必ず帰宅しなかった。
食洗機からだした水筒の少女の顔がゆがんでいた。
〈サトウのごはん 新潟県魚沼産こしひかり 150g〉を電子レンジであたためた。
茶碗にうつす間に、酢豚をあたためた。母が好きな料理だった。もっとも母は昼に食べているかもしれなかった。近所に〔中山〕という中華料理店がある。
あたためすぎたらしくとろみが固まってしまっていた。
母が帰らないことを思い出して、九谷の小皿に半分とりわけラップした。自分の分は皿にうつさず食べることにした。
生みそタイプのお味噌汁にお湯をそそいだ。
ごはんと酢豚と味噌汁は変な感じだが、中華スープを買い忘れていたからだった。
手をあわせ「いただきます」と言って食べた。
美味しくなかった。
ジバンシーの皿にうつして、忘れないようにポストイットに「中華スープ」と書いて冷蔵庫に貼った。
「もっと早く連絡してくれればいいのに」
どうせ「仕事のさきゆきは分からない」と母は答えるだろうけれど。
食べ終え「ごちそうさま」をすると、冷めた皿を冷蔵庫になおした。茶碗と汁椀と皿を軽くあらって食洗機にいれた。
汚れものがきれいになるのが好きだった。
ダイニングルームのデスクトップパソコンを起動させて、dアニメストアで久米田康治の『かくしごと』を観た。母がいない父と娘の漫画が原作だった。
少女は父を知らなかった。賢かったので母にも父のことを聞かなかった。
聞けば、あの母のことだから本当のことを教えてくれるだろうが、それが少女の本当かどうかは分からない。母にとっての本当のことだろうから。
常温のケトルの紅茶をマグカップに入れてあたためた。デザートはアンリ・シャルパンティエの〈プティ・タ・プティ Sボックス 26コ入り〉だった。
三話分を観るあいだに、紅茶を二度おかわりして、焼き菓子をぜんぶ食べてしまった。母は美味しいものを食べてくるだろうから、ささやかな反抗だった。
お風呂をいれるのを忘れていたので、まだ時間があった。先に布団をしいて、歯磨きをしつつつづきを観た。
お風呂が沸いた音が鳴ると、パソコンの電源をおとして、口をゆすいだ。きれいな歯並びは母ゆずりだった。
湯船につかると、左の二の腕が痛んだ。学校でつねられたあとだった。顔をつけて涙を消した。
緑髪を洗っていると、玄関の鍵が開く音がした。
「たっだいまー」
かなり酔っている。
「お帰りなさい」
シャンプーが目にはいる。
「三ノ宮(さんのみや)さん、声大きいです」
やわらかい男性の声だった。編集の人だろう。
「雪絵(ゆきえ)って言ってって言ってるじゃあない、はい言って、雪絵、雪絵、ゆーきーえー」
「はいはい、雪絵さん。——お邪魔します。よいしょっと」
「帰ったわよ。六花(りっか)ー。六花どこー」
「お風呂です。私、帰りますね」
「だめー。朝までいて。——ヒック」
「いらっしゃいませ」
お風呂からあがった濡れ髪の六花が挨拶した。
「あー六花だー」
椅子に座らされていた雪絵が立ち上がって、六花にだきつこうとして転びそうになった。グラスに水をいれていた三つ揃いのハンサムが雪絵の腕をつかんで支えた。
「お母さん酒くさい……。あのお……」
「水ー。水ー」
「はい。——私は長藻(ながも)です。お母さんの友人です」
六花にグラスをわたしながら、長藻秋詠(ながもときなが)が挨拶した。
「あなたに母と言われる覚えはありません」
「六花……この人あなたのお父さんになる人だから」
「えっ?」
「はい?」
二人が目をあわせ、雪絵をみた。
「あの野郎今度会ったら殴ってやる」
ぶっそうなことを言う雪絵だった。
「ふう……雪絵さん」
「名前で呼ばないでください」
「はい。暴力反対で——」
長藻秋詠がテーブルの水筒をみて話をとめた。
「お母さんは知っているの?」
「何度も言わせないでください。母と呼ばないでください。あなたにそう呼んで欲しくありません。あなたにその権利はありません」
「三ノ宮さんは知っているのかしら?」
「何をです?」
「話したほうがいい。あなたが話さないなら私が話す」
「もう母と話さないでください。帰ってください」
「えー帰っちゃうの? ヒック。みんなで川の字になって寝よう……ぐうぐう」
「寝ちゃった……」
幼子をみるように雪絵をみる六花だったが、長藻秋詠がいることに気づいて眉間に皺をよせた。
「あのー」
「失礼します」
「こんなにまで酔わせるなんて、酷い人ですね。あなたは」
「これは二日酔いの薬。では」
テーブルにPTP(薬剤包装)されたカプセル二錠をおいた。
いつものようにテーブルに眠る雪絵をおいて、六花が見送りした。すぐにでも鍵をしめたいらしい。
どうして二人がすぐに入ってこなかったか六花が理解した。
長藻秋詠が紐靴を履いているせいだった。さっと結ぶと外にでた。
「送っていただいてありがとうございました。二度と会いませんように」
言うなりドアを強く閉めた。
「お休みなさい」
錠前が閉まる音が返答だった。
「お休みなさい」
ドアチェーンをかけながら六花も挨拶した。雪絵が水を欲しがっていた。グラスにそそいで渡すと、薬をゴミ箱に投げ捨てた。
*****
翌朝、ベッドの雪絵を見にいくと、かなり辛そうだった。洗面器にしいたゴミ袋をかえた。もう胃液しかでない。
水も飲めないのだろう。渇いているのに飲めば吐いてしまう。
「六花……薬知らない? 秋詠(あきえい)さんにもらったんだけど……」
「知らない。お母さん落としたんじゃあない?」
「ちゃんと財布もあるし、電話もあるし、あの薬効くのになあ……うるうる」
「ないものはないです。お母さん仕事は?」
「今日は休み。打ち切りになった。また書くけど今はむりぽ」
「わたし学校いってくる。冷蔵庫に酢豚あるから」
「あい……」
三ノ宮六花の学校の出来事はいつもと同じだった。
*****
>中山
>
雪絵からのメッセージは一言だった。
二週間に一度は〔中山〕の広東料理が夕食だった。もっとも、雪絵は週一でランチの酢豚定食を食べている。
家にもどって着替えることもせずに〔中山〕の暖簾をくぐった。
いつものカウンターではなく、奥のテーブルに雪絵がいた。長藻秋詠も。
「わたしこの人といっしょに食事したくありません。帰ります。お母さん帰りましょう」
「ではそのように」
前菜を乗せていた取り皿を六花のほうによせた長藻秋詠が手をさしだした。
「秋詠さん。ごめんなさい。コレ裸だけどごめんなさい、ゆっくり食べてって」
雪絵が一枚手渡した。雪絵が立つと同時に長藻秋詠も立って小さく手をふった。憂いの笑顔。
「お母さん! どうしてあんな人といっしょにいるの? あんなに酔っ払わせて信じられない! あんな人といっしょに食事できない!」
表にでると、歩道の真ん中で口をひらいた。
「六花、あなた何か私に言うことあるでしょう?」
「あの人が言ったの?」
「あるの? ないの? どっち?」
うつむく。
「……ここじゃあ言えない」
「じゃあ、家に帰ってお話しましょう。夕食何にする? スーパーまだ開いているわよね」
「……食べたくない」
「そう……」
帰ってドアを閉めた六花を、雪絵がしっかりと抱きしめた。
「六花はしっかりしているから私なにもしてなかった」
「お母さん……。紅茶を飲もうよ」
「そうね」
いつもはリプトンだけれど、ウィリアムソンの紅茶をいれた。ベルガモットの香りがやさしいアールグレイだった。象のマークが愛らしい。六花が鼻をなでる。
いつもは対面で食事するのだが、雪絵が六花の左に座り、アクアスキュータムの淡い紫のハンカチをテーブルにおいた。
「お母さん、あの人とはどういう関係なの?」
「ん? 好きな人」
「恋人?」
「恋人以上愛人未満みたいな……願望だけれど」
「わたしあの人嫌い」
「好き嫌いじゃあ仕事はできないわ。仕事仲間よ。昨日ちょっとトラブルになっちゃって——」
「——打ち切り?」
「そう。理不尽なことをいうから、相談きいてもらってたの」
「弁護士?」
「ううん。弁護士を紹介してもらったの。お母さんの話はそれだけ」
「どうなるの?」
「さあ」
「さあって?」
「よく分からないことは専門家に任せればいいし、そのためにお金とるんだし」
「それとあの人とどういう関係なの? アチッ」
「ちょっとした復讐……なんてね。〈大人の事情〉です」
「知りたい」
「大人になったら教えてあげるわ」
「そう……。いつから大人になるの?」
「民法では18歳よ。でも……」
「でも?」
「よく分からないわ。子供を産んでも大人になりきれない人もいるし、賢いエリートでもバカなことをするし……。ほんと熱いわね。あーあれ出して、アンリ・シャルパンティエのプチプチ」
「食べちゃった」
「全部? いっぱいあったじゃあない? 全部?」
「食べちゃった。ぜーんぶ」
久しぶりに心の底から笑う六花だった。雪絵が六花の髪をなでた。
「何があったの?」
「あの人から聞いたんでしょう?」
「秋詠さんは言わないわ。『悩みを聞いても意味がないから』ですって」
「なにそれ?」
「『悩みなんて単純な課題でしかない。本当の苦悩を知ることはできない』——なんだそうよ。何が問題か分かっていたらやらなきゃあいけない課題なんだし、本当の問題はそれ自体が見えていないから問題なのよ」
「変なの……。堂々巡り?」
「さあ。でも、生きている限り悩みはなくならないし、堂々巡りというならそうなのでしょうけれど、人間はそんなに賢く生きられないわよ」
雪絵が、ティーポットに湯をたした。六花の手をとってポットの温もりを確かめた。
「あの人がお父さんになるの?」
「えっ?」
「昨日お母さん言ってた」
「あっちゃー」
手をはなして額に手をやった。まだ頭が痛いらしい。
「告ってもないのに言ってしまった……。確かに記憶にあるわ……。とはいえ、六花のお義父さんにはならないわ」
「どうして?」
「嫌ってたんじゃあないの? あなた」
「よく考えてみたら、あんなことしなくてもイイくらいハンサムだもん。女性を見送るのにわざわざ席を立っているし」
「よく見てるわね。……ともかく恋人になっても結婚には向かないわ」
「そう? 結婚したら遊んでた人もまじめになるとか聞くけれど」
「それ、幻想。——本人が向かないって言ってたわ」
「結婚してたことがあるの? お母さんみたいに?」
「私は結婚していないわ」
「えっ?」
「あーそっか知らないんだったっけ。私も結婚に向かないのよ。あなたのお父さんとは結婚できなかったから」
「わたしのお父さんってどんな人なの?」
「テロリスト。自爆して死んじゃった」
「なにそれ酷い」
「頭はよかったんだけど変なほうにいっちゃったのよね。『スカイハイ』なら呪い殺して地獄へ逝くタイプ」
*高橋ツトム『スカイハイ』(集英社、2001年12月)
「長藻(ながも)さんは?」
「秋詠(あきえい)さん? ちゃんと名前覚えているじゃあないの。そうね。賢い人よ。生き方は不器用だけれど。たまに海老チリ持って帰ってくるでしょう? あれ秋詠がつくってくれたの」
「料理のできる男性はイイですね……」
「それで?」
きっかり十二分後に六花が話しだした。
*****
話し終えたころ、チャイムが鳴った。
「夕食をお持ちしました」
長藻秋詠だった。
落ち着けばお腹も空くというものである。それを見越した来訪だった。
「……ごめんなさい」
濡れたハンカチを手に六花がまず謝った。
「いいよ。気にしていないから。——食べようか」
憂いの瞳と、和らいだ笑み。
いつものように、六花が皿にもった。
・花くらげの酢のもの
・野菜の湯葉巻き(胡麻だれ)
・ピータン(甘酢生姜添え)
・蒸し鶏(葱生姜だれ)
・イブクロとザーサイの和えもの
・油淋鶏
・揚げ雲呑(甘酢添え)
・青梗菜の炒めもの
・スペアリブの醤油煮込み(豆板醤入り)
・海鮮三種と野菜の炒めもの
・エビのオレンジソース
・酢豚
・焼きめし
・叉焼そば
・杏仁豆腐
長藻秋詠がスーパーにもよったらしい。大葉もそえる。
レタスが一玉。
「これは何するんですか?」
「あー焼きめしをつつんで食べるのよ」
「前菜から食べなよ」
ジャケットを脱いだ長藻秋詠がウェストコートの襟を正しながら雪絵にさとした。
飲みものは、茉莉花茶(モーリーファーチャー)——ジャスミン茶だった。
「秋詠さん、なに食べてきたの?」
「くらげと湯葉巻きで紹興酒。あと汁そば」
「もうお腹いっぱいじゃあないの?」
「少しは食べるよ」
長い菜箸で、花くらげの酢のものを小皿によそった。
*****
残るかと思われたが、結局食べてしまった。
「九谷を食洗機にいれて大丈夫なのかしら?」
食後のアールグレイを飲みながら長藻秋詠が聞いた。
「えっ? ダメなの?」
無頓着な雪絵だった。書斎に向かう。
「色は落ちていないから大丈夫なんだろう……」
ゆっくり息をはいて深呼吸をしてから、ダイニングルームをゆっくり見てまわった。片付けられたテーブルに戻り、MacBook Proを起動させた。
「あっ、マックだ」
六花がタオルで手を拭きながら覗くと、Fedoraのデスクトップだった。
「何ですか? これ?」
「Red Hat系Linuxディストリビューション。——盗聴はなし。で?」
「フィディックがあと一杯しかない」
雪絵がもってきたのは、グレンフィディックの緑の三角形のボトルだった。
「スペイサイドか……。じゃこっちにしよう」
長藻秋詠がだしたのは"候爵のアモンティリャード"という名前の〈デル・デューク〉だった。ティオ・ペペと同じゴンザレス・ビアスのシェリー酒である。
「なに、それ?」
両手でとって、冊子をみた。
「Del Duque ... Amontillado ... Del Duque muestra un color dorado oscuro debido al extenso tiempo pasado en la bota. En nariz aromas punzantes del tiempo pasado bajo velo de flor y frutos secos como nuez moscada del Palomino. Sorprendentemente fino. En paladar seco y potente, bien estructura y largo final. Servir frío, es un tipo de vinos para disfrutar con platos potentes como marisco, arroz o carne de caza, así como en momentos de meditación o relajación.」
cf.
https://www.tiendagonzalezbyass.com/del-duque-amontillado-vors
「お母さん?」
流暢なスペイン語だった。内容は「美味しいです」である。
六花に答えず、食器棚からシェリーグラスをとりだすとすっと注いだ。目をつむる。香り深い。美しい光沢だった。
「お母さんはスペイン語できたの?」
「あなたできないの?」
「できないよ……」
「ちょっと飲む?」
「子供に飲ませるな」
「秋詠さん十四のころから飲んでたでしょうに。あっ!」
六花が一口飲んでしまった。
「うげ……」
みるみる顔が赤くなる。シェリーは醸造過程でアルコールを添加した酒精強化ワインなのでふつうのワインより度数が高い。〈デル・デューク〉は21.5%もある。
「あっでも美味しい」
「おい。いつも飲ませているのか?」
「たまに……」
横を向いてグラスを傾けた。そこでようやく一人だけ飲んでいるのに気づいたらしい。食器棚からワイングラスをだした。
長藻秋詠にそそぐと、飲み終えまたそそいだ。
「飲み過ぎだ。また昨日のようになるぞ。——水を飲んだほうがいい」
まだ欲しそうにする六花だったが、飲めばぶっ倒れるに決まっていた。素直に言われたとおり冷蔵庫のエビアンを飲んだ。
「わお♡」
鼻腔に残り香がひろがった。
「『アモンティリャードの酒樽』って知ってる?」
ぶっそうなことを言う雪絵だった。『アモンティリャードの酒樽』はエドガー・アラン・ポーの短編小説である。
「酒飲みが読んでいないのは自殺行為だろう。文筆家が中島敦の『文字禍』を知らないなら先人の轍にそい死ぬようなものさ」
ようやく落ち着いたらしい。軽い口調で返した。
*****
長藻秋詠は、辛いだろうから母の雪絵から聞こうと思っていたのだが〈デル・デューク〉を二杯飲んで酔ってしまったこともあって、六花がもう一度話すことになってしまった。
・神凪星(かんなぎ せい)という女子からいじめられている。
・花柳耐(はなやぎ たい)という男子も加わっている。
「いつから暴行を受けているの?」
一通り話を聞き終えた長藻秋詠が整理するために聞いた。
「暴行……ってただのいじめです」
「人は簡単に死ぬよ」
「長藻さん、ぶっちゃけすぎです。本当にただのいじめなんです」
「それであなたが苦悩している。事実として、お母さんに迷惑をかけている。ああ違う、あなたではなく、その二人が、迷惑をかけている。で、どうしたいの? 単純に暴行を止めたいの? それとも暴行から逃げたいの?」
「ですから、暴行じゃあなくていじめなんです。そんな大事じゃあなくて——」
「——もう大事になっている。あなたは、あなたの人生を楽しんでいない」
「はっきり言いますね……」
「言わなきゃ解らない人もいるからね。で、どうしたいの? 単純に暴行を止めたいの? それとも暴行から逃げたいの?」
「元のように……仲良くなりたいです」
「それは無理だね」
「どうしてです!?」
六花がテーブルに手をついて立ち上がった。
「うん……六花……落ち着いて……」
雪絵は半分眠っていた。
「一度失ったものは二度とは戻らない」
「分かってます! 分かってますけど、どうしたらいいか……」
「まずは、戦うとする。まずは暴行と器物損壊」
「暴行ってわたしは何も……」
「あなたは右利きだけれど、左手を極端に使わない。庇っているんだろう? ああ、見せなくていい。見たら私も傷(トラウマ)になる。他にも髪の毛が——」
「——だからそれはいじめで——」
「——暴行だよ。認めなさい。あなたは今でも友人だと思っているだろうけれど、友人がそんなことをするのかしら。そもそも学校でたまたまクラスが一緒だっただけでしょう? 友人になったのは偶然でしょう? たまたまそこにいただけで共感するなら、吊り橋理論だよ?」
「……どうしてこんなことに」
「原因はあとで調べるとして、どうしたいの? 逃げるのも手だよ」
「逃げるとしたら? どうなるんです?」
「転校するなり、一時的に留学するなりあるよね。そこまで追ってくるとは思えないけれど、追ってきたら戦うことになる」
「戦うとしたらどうなるんです?」
「普通に司法手続き。そもそも、暴行は親告罪じゃないから」
「そんなことをしたら二人とも捕まってしまう」
「捕まってしまう、そんなことを、二人がしたの」
「先生に相談したら?」
「司法手続きを、教諭が妨害したら逆に行政上、民事上の責任を問われるよ。最悪は犯人蔵匿罪、証拠隠滅罪で馘(くび)です。今の言葉は、あなたが担当教諭を馘にしようとしている。——それに二人とも捕まっても少年なんだし問題はない」
「なんでそんなに簡単に言うんです?」
「それが、戦うということだから。戦うのなら効率よく戦うほうが楽だもの。それに、人格を傷つけられたら戦うほか手はないの」
「どうあってもですか?」
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ご高覧、感謝です。 サポートによる調査資料(エビデンス)を使った「思考の遊び」――エンタテインメント(娯楽)作品です。 ※虚構も少なからず入っています。