45.「東アジアの思想」という話(29)_17729
45.「東アジアの思想」という話(29)_17729
【前漢(3)】(紀元前二〇六年−紀元後(西暦)八年)
第十三代平帝の時、新都侯に封じられた王莽(おうもう)によって、前漢は滅亡します。首都長安が、後漢(東漢)の首都洛陽の西にあたりますから、西漢とも言います。
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【新】(八年−二三年)
王莽が簒奪し、新を建てました。ですが、すぐに漢が復興し、滅びます。
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【後漢】(二五年−二二〇年)
前漢の景帝の子孫の劉秀が新を倒して、光武帝となり漢王室を再興します。献帝まで十四代百九十六年続きました。
途中、新がありますが、四百年あまり続きました。そのために、今でも中国本土や民族にも、漢土・漢字・漢文・漢方のようにその名を残しています。
中国人のほとんどが漢族です。漢族という共通の民族意識になったのは、春秋時代に自らを諸夏・華夏と呼ぶようになってからです。漢代以降は、漢人・漢族と称します。
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《建安七子》
建安(一九六年−二二〇年)は、後漢末の献帝のころの年号です。このころの七人の文人(孔融・陳琳・王粲・徐幹・阮瑀・応瑒・劉楨)を、建安七子(けんあんしちし)と言います。
その詩風は格調高く、建安体(けんあんたい)と呼ばれます。当時の施政者曹操と、その子曹丕・曹植も含まれます。
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《曹操》
『三国志演義』では悪役の曹操ですが、その才は天下第一でした。たとえば、現代に残る『孫子』は、後に魏の武帝と追尊される曹操が注を加えた『魏武注孫子』です。なお、『孫子』は、一九七二年に山東省臨沂県銀雀山の漢初の竹簡資料が発見されています。
曹操は、きわめて有能な政治家であり、本当の意味で文武両道でした。しかし、どうしても許されないことをしてしまいます。建安七子の孔融(こうゆう)を殺してしまったのです。
「孔」という名前からも分かる通り、孔融は「聖人」孔子の子孫です。それは悪役にもなろうというものです。
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【三国時代】
《魏(三国)》(二二〇年−二六五年)
後漢の献帝は、曹操の傀儡――操人形でした。曹操が亡くなった後、献帝は禅譲し、曹丕は魏の文帝となります。
曹操と同じく、実際には簒奪した曹丕も歴史的評価は低いです。ともあれ、九品中正を始めたことは一つの評価でしょう。
曹植は、曹丕の同母弟です。文人としては傑出していました。
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《蜀漢(三国)》(二二一年−二六三年)
『三国志演義』の主役(ヒーロー)劉備が建てた国です。劉備は、漢の景帝の皇子中山靖王の劉勝の後裔ですから、漢の再興を意図しています。それはイコール、蜀漢による前漢・後漢から簒奪した魏への討伐です。
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〈白眉/「泣いて馬謖を斬る」〉
蜀の馬氏の五人兄弟で一番優れていたのが、眉毛に白い毛があった四男馬良(ばりょう)です。このことから、同じような集まりの中で一番優れている人や物を白眉と言います。
その末っ子が馬謖(ばしょく)です。劉備は諸葛亮に、馬謖を優遇するなと遺言しましたが、諸葛亮は第一次北伐に採用します。結果、馬謖は諸葛亮の命に背き大敗を帰します。
諸葛亮は、馬謖の有能さを惜しみますが「泣いて馬謖を斬る」ことで、軍規を優先します。ここに、蜀漢の中原攻略は壮図むなしく挫折します。
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《呉(三国)》(二二二年−二八〇年)
劉備とともに赤壁の戦い(二〇八年)で曹操を破った孫権は、後に独立して呉を建てました。ここに三国が揃います。
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〈呉下の阿蒙〉
魯粛が呂蒙に言った言葉が「呉下の阿蒙に非ず」です。武略にのみ優れた呂蒙でしたが、孫権に本を読めと言われて学び、「もはや呉にいたころの蒙ちゃんじゃないな」と魯粛をびっくりさせました。
このことから、進歩のない人を「呉下の阿蒙」と言います。
イヤミを言われた呂蒙はブチ切れて「士別れて三日、即ち更に刮目して相待つべし」と返しました。「三日も会わなければ、びっくりするほど進歩している」というのです。何事も先入観で話をするのはいけません。
呂蒙が誰か知らない人も多いかもしれません。関羽を討った人です。関羽は後に関帝(かんてい)という神になりました。関帝を祀る関帝廟は、孔子廟と同じように全世界にあります。