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「努力の意味」という話

「努力の意味」という話

ふつうの人が努力しても意味はありませんよ。

少し考えてみましょう。

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ようこそ。門松一里です。静かに書いています。

いつもは、
「あまり一生懸命になるな」という話
https://note.com/ichirikadomatsu/n/n081dd28c9a6c
とか、
「沈黙」という話/「東アジアの思想」という話
https://note.com/ichirikadomatsu/n/n416e39d84b94
を書いていますが、本当はノワール作家です。

という話(ik)を連載しています。

こちらは調査資料(エビデンス)を使った「思考の遊び」――エンタテインメント(娯楽)作品です。※虚構も少なからず入っています。

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努力は運と才能がある人がするものであって、運に見放された才能のない人がするものではない。#blackjoke
技術は運も才能もない人でもそれなりにできるものであって、運や才能による王道はない。

https://twitter.com/ichirikadomatsu/status/1379257763478433794

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努力は運と才能がある人がするものであって、運に見放された才能のない人がするものではない。#blackjoke

努力は、一生懸命することです。

「一生懸命」(いっしょ"う"けんめい)という言葉は、もともと「一所懸命」(いっしょけんめい)でした。

「一所懸命」は、十四世紀の『太平記』(たいへいき)にある言葉ですので、とても由緒正しい言葉です。

「一所懸命」は「一つの場所に生命を懸(か)ける」――「賜(たまわ)った一つの領地を必死に守る」ことです。

ふつうの人が人生で何回「生命を懸けている」でしょうか。そんなにありませんよね? いっぱいあったら毎日誰か亡くなっています。

日々努力するなんてありえないんですよ。ですから、ふつうの人が一生懸命にならないでください。周りの人の迷惑です。

どう迷惑なのか、何が問題なのかは前述しています。この機会に読んでみてください。
cf.
「あまり一生懸命になるな」という話
https://note.com/ichirikadomatsu/n/n081dd28c9a6c

「努力しても意味はない」と言われたらどうでしょう。一生懸命している人からすれば絶望に聞こえます。

私は「絶望」と言っています。#blackjoke

運も才能もなかったら、まったくの無意味だからです。神風は吹きません。

言われると腹が立つでしょうね。それだけのことなんです。つまり、それは感情なんです。現代社会は精神力でどうにかなるようなことはありません。

判官贔屓(ほうがんびいき)もあるでしょうが、見殺しにしたのを悔いて神格化しているだけです。#blackjoke

判官贔屓は、判官(はんがん)であった源義経によせる同情心のことです。悲運の英雄でしたから、世間の愛惜(あいせき)(※)の情が深かったのです。
※傷つけるのを惜しんで大切にすることです。

けれど、源義経は処分されても仕方がないほど、異母兄の大将源頼朝の言うことを聞きません。天才なんですね、源義経は。一方の源頼朝は政治家です。

とはいえ、源義経を誰が助けたでしょうか。能の『安宅』(あたか)や歌舞伎の『勧進帳』(かんじんちょう)では、白紙の勧進帳を読み上げた弁慶が疑われた源義経をボコボコにしましたが、富樫泰家(とがしやすいえ)が助けています。

ジパング奥州キンピカ藤原秀衡(ふじわらのひでひら)は、源義経を匿いますがすぐに亡くなってしまいます。嫡男の藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は藤原秀衡の遺言に従わず源義経を討ち、結局は源頼朝に亡ぼされてしまいます。

その源頼朝の鎌倉幕府も、伊豆の豪族だった北条氏に執権職を世襲されてしまいます。

判官贔屓は転じて、弱者に対する第三者の同情を意味するようになります。同情なので、法律や慣習は無視です。とりあえず、贔屓する訳です。

なお、贔屓は亀に似た中国の伝説上の生物です。貝(財宝)を三つあわせていますから、重い荷を背負うのが好きという設定です。意匠は、石柱や石碑の台に亀趺(きふ)として使われています。ここから、贔屓しすぎると倒れる意味になりました。#サンタナ #柱の男 #ジョジョ

同情もされます。源頼朝は容赦がありません。源義経を擁護した人物を一族郎党殺めました。伊豆の流人だった源頼朝は、生き残りがどうするか理解していましたからね。#このストレイツォ容赦せん

能『安宅』/歌舞伎『勧進帳』で源義経一行を助けた富樫泰家は、米国映画で言えば英雄(ヒーロー)を助ける名脇役です。

けれど、現実社会で許されるでしょうか。多くの施政者は源頼朝のように容赦がありません。するとしても、個人ではなく親類縁者まで累を及ぼすとなると、そうそう助けることはできません。中島みゆきの「ファイト!」の歌詞のようです。
(逆に言えば、それだけ施政者は不安定だということです。)

たとえば、杉原千畝(すぎはらちうね)は、第二次世界大戦中にリトアニアの在カウナス日本国総領事館の領事代理だったときに、多くの難民を救済すべくビザ(査証)を発給しました。

難民をつくったのは、枢軸国——アドルフ・ヒトラーの第三帝国です。大日本帝国の同盟国ですから外務省は、イイ顔をしません。結局、杉原千畝は独断で、ビザを発給しました。

多くの難民がシベリア鉄道から、日本の神戸にやってきました。その当時は多くの外国人が神戸にいたのです。手塚治虫の『アドルフに告ぐ』でも描写されています。

杉原千畝は人道的に行ったのであり、当然のことをしたと考えていましたから誇ることもしませんでした。本当の英雄ですね。

しかし、批判的な見方をすれば、一つには杉原千畝が外務省他政府の要職に親しい人がいなかったことも原因しています。鎌倉時代ではないので、他の誰にも迷惑をかけなかったのです。

それに、杉原千畝はおそろしく賢い人でした。外交官というのは公式な(国益を求める)スパイです。将来の日本のことまで考えていたことは否めません。そして、それは現実になります。日本はイスラエルと仲がいいでしょう?

杉原千畝は英雄(ヒーロー)ですが、自ら望んでそうなったのではありません。とかく少年は英雄(ヒーロー)に憧れますが、多くの英雄(ヒーロー)は望んでそうなったのではありません。

ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトは戯曲『ガリレイの生涯』の台詞で「英雄のいない国は不幸」なのではなく「英雄を必要とする国が不幸」だと表現しています。

「英雄を必要とする国」は愚者の国です。愚者は自分が不幸かどうか理解できません。いま「不幸な世界は愚者がいる」のではなく「不幸な世界は愚者を排除できない」のです。この不幸な世界は民主主義と折り合いが悪いです。

英雄(ヒーロー)なんて要らないのです。

それでも英雄(ヒーロー)に憧れるのも分かります。けれど、それは第三帝国の軍服を見て「カッコイイ」のと思うことと同じかもしれません。

だって、ナチスの軍服はカッコイイですから。でもね、アレ、カッコイイように作っているからです。演出です。嘘です。虚構です。だから、騙されてはいけないんです。

その格好良さに憧れたドイツ人は、自ら独裁者アドルフ・ヒトラー総統(フューラー)を選び欧州を火の海に変えました。

ですから、ドイツでは騙されないように今でも第三帝国を題材にした映画が作られています。ヒトは都合の悪いことは忘れる生物ですから。

火の海といえば、消防士はある種の英雄(ヒーロー)ですが、親御さんが英雄(ヒーロー)になったらどうでしょうか。もう消防隊が来ているのに。

滅茶苦茶迷惑ですよね? たまに人はそれをしてしまいます。

たとえば、テニスでインターハイ(全国高等学校総合体育大会)の選手二人と、プロフェッショナルのテニス選手とまったくの素人二人ではどちらが勝つでしょうか。

ちょっと分かりにくいですか? 10万円のワインと1,000円のワインを混ぜたらどうなりますか?

10万1,000円のワインが2本できるでしょうか。ムリですよね。絶対に美味しくありません。まだ1,000円のワインのほうが混ざっていないぶん美味しいです。

10万円のワインは、それだけの時間と労力が課せられています。なにより、その葡萄(ぶどう)はその地域でなくては認められません。

たとえば、シャンパンはフランスのシャンパーニュ地方以外には名乗ってはいけません。他はすべてスパークリングワインです。

それがブランドであり、価値そのものです。
(あークリュッグ飲みたい。ヴーヴ・クリコでもいい……。)

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ヴーヴ・クリコ イエローラベル
シャングリ・ラ ホテル 東京

ゴルゴ13「……10%の才能と20%の努力……そして、30%の臆病さ……残る40%は"運"だろう……な……」
さいとう・たかを『ゴルゴ13』第218話「ロックフォードの野望(謀略の死角)」(小学館、1984年)

「プロとしての条件」を聞かれたゴルゴ13の答えです。

逆を言えば、運と才能だけで50%です。それ以上はブランドを維持する努力だけです。そんな大変な努力は要りません。ほんの少し1%でもやれば勝ち抜けます。努力はそんなものなんです。

努力は運と才能がある人がするものです。

世界にはさまざまな言語・思想・主義・主張・宗教・民族・人種・性別・政治・体制・国家・個性・感情・情熱……があります。

これらは境界線です。運と才能がある人は簡単に向こう側に行けますが、運に見放され才能のない人は見ることさえできない世界です。

人類は、多くの境界線を引いて来ました。最初は生存のために止むなく引いた線でした。けれど、どれだけの境界線があろうと、それに続く道は必ずあるのです。

それが技術です。

技術によって、多くの境界線を見ることができます。たとえば、言語ですと自動で翻訳してくれたり、話してくれたりします。

国家の垣根をこえるのは大変ですが、SNSですと地球の反対側でも話ができます。

他にもあるでしょう。考えてみてください。それらは努力では解決できない問題を、境界線と認めた上で見ることができます。

解決できないことも多いのは事実ですが、努力のように全く解決できないことではありません。

個人的なことでは、私はディスレクシアです。失読症なので漢字以外の認識が甘いです。ひらがな・カタカナ・数字・英語の認識は甘く、そのほかの言語はもちろん音譜も読むことはできません。

アラビア語も音譜も一音一音読めば分からないこともないのですが、連続すると全体を覚えないとできないので人生時間残量から考えて不可能です。画像記憶する能力も低下しましたし。それに、言葉を覚えるということは、その文化や歴史まで知るということですからそんなに簡単に覚えられませんよ。

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技術は運も才能もない人でもそれなりにできるものであって、運や才能による王道はない。
https://twitter.com/ichirikadomatsu/status/1379257763478433794

どうやって文字の認識を高めたかですが、身体に覚えさせました。
cf.
「学歴」という話
https://note.com/ichirikadomatsu/n/n239090cc7da1

地味ですからオススメしません。非効率ですし、技術に頼ったほうがマシです。

画像記憶という手もありますが、過大な集中力の割にはできることが少ないので(恐ろしく脳への負担が大きいです)、今ではiPhoneで撮影しています。

覚えるより、撮影したほうが楽で正確ですし、客観性がありますし再現性があります。これが技術です。

「なあんだそんなことか」はい、そんなことです。

でも、実際にはどうでしょうか。
たとえば、大きな駐車場で自分の車が迷子になったことはありませんか?
(正しくは、迷子になっているのは車ではありませんが。)

そんなときは、止めた場所の番号を撮影すればいいだけのことです。係員に言えば、必ず正確な場所を教えてくれます。スパイ映画ではありませんから、嘘をつく人はいません。(いたら馘になっています。)

こうしたことが技術です。運や才能がいるでしょうか?
(例外は別にしてくださいね。たとえばの話ですから。)

音譜を読めなくても、演奏はできます。暗譜するのが、今までの地道な方法です。

コンピュータで音譜を表示すれば理解することができますし、そのままコンピュータで演奏することもできます。

エリザベート王妃国際音楽コンクールやショパン国際ピアノコンクール、チャイコフスキー国際コンクールには参加できません。けれど、音楽と一生くらすことはできます。

運や才能によって、より高みにいくことができます。しかし、それでさえ技術を正しく使うという王道を歩む必要があります。

どれだけ運や才能があっても、カメラがないと映画は撮れません。#joke
cf.
三谷幸喜監督『ザ・マジックアワー』(2008年)

そして、それ以上がスピードやタイミングです。

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