「伝わらないのは伝えていないから」という話
何かを伝えるということは、とても大変なことです。
きちんと伝えたつもりでも相手はそうとらえなかったり、誤解してしまうことも多々あります。どれだけ正確を期しても、どうしても行違(ゆきちが)いが生じてしまうものです。
行違いのことを「齟齬(そご)」と言います。難しい漢字ですが、二文字とも「上下の歯が食い違っている」という意味です。食い違っていると物事をよく飲み込めず、蟠(わだかま)りが残ってしまいます。
では、どうやって齟齬なく蟠りを残さず伝えることができるのでしょうか?
自分が思うより他人(ひと)はよく考えているものです。
少し考えてみましょう。
《目次》
【水掛け論】
【長門有希】
【エコー】
【以心伝心】
【伝える内容】
【伝えるためには】
〈天の時、地の利、人の和〉
〈まず受け取る〉
〈慮る〉
【参考文献・資料】
※読切
※文庫本【17】頁(41文字17行)
※原稿用紙【20】枚(400字詰め)
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【水掛け論】
齟齬(そご)の代表の一つが、「言った」「言わない」の水掛け論(みずかけろん)です。つまらない人の軽口で、多くの人に蟠(わだかま)りを残します。
水掛け論の原典は、狂言の『水掛聟(みずかけむこ)』と言われています。
『水掛聟』は、婿(むこ)と舅(しゅうと)が日照(ひで)りのときに自分の田に水を引こうと争い、娘が来て婿に見方をして舅を倒す「我田引水(がでんいんすい)」の話です。
そういえば、台湾(たいわん)の国立故宮博物院(こくりつこきゅうはくぶついん)に、水掛け論の由来となった作品がありましたね。行かれる機会があれば楽しんでください。
さて、「言った」「言わない」の水掛け論になると、私たちは「言っていない」ものとしています。口約束は契約の一つですが、「相手に伝わっていない」のだとしたら、「言っていない」のです。もっとも「言った」相手が依頼者(クライアント)の場合は別です。どこにでも大人の事情はあるものです。
そもそも、私たち人類(Homo sapiens)が言語という記号体系から、情報を伝達するようになったのは、ホモ・サピエンス(知恵ある人)の歴史からするとごくごく最近です。ですから、齟齬があっても不思議ではありません。
そこで、知恵ある人は紙で残すなり、メールで残すなり「言った」事実を確認します。こうしたことは自衛するしかありません。
大手の企業相手ですと、契約書が交わされますのでそれを遵守することになります。契約書は甲乙それぞれ一部ずつ同じものが全二部あります。なお、請負に関する契約書(※)には印紙が貼られます。
※請負に関する契約書――国税庁「No.7102 請負に関する契約書」
https://www.nta.go.jp/taxanswer/inshi/7102.htm
より確実に公正証書にする方法もあります。かなり大げさになりますから、まま怪しいところは契約してくれませんので助かります。
「言った」「言わない」で一つだけ言えるとしたら、そうしたつまらない人は自らの軽口を原因にいずれ消えてなくなるということです。デスラー総統曰(いわ)く「ガミラスに下品な男は不要だ」です。
【長門有希】
齟齬(そご)という言葉がインターネットで有名になったのは、谷川流(たにがわながる、1970年12月19日―)のライトノベル『涼宮ハルヒの憂鬱(すずみやはるひのゆううつ)』(※)からでしょうか。
登場人物の一人であるかわいい文学少女長門有希(ながとゆき)の台詞(せりふ)に「うまく言語化出来ない。情報の伝達に齟齬(そご)が発生するかもしれない。でも、聞いて」(※)とあります。
※谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』(角川書店、2003年)118ページ
ちなみに、長門有希は「この銀河を統括(とうかつ)する情報統合思念体によって造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェース」――つまり「宇宙人」です。
小説や映画などエンターテインメント作品は特に努力しなくても、宇宙人と会話することができます。ただ、現実に宇宙人がいるとしても会えないでしょうし、会ったとしても不幸になるだけです。正に宇宙人がいるとしたらそれは地球人です。
【エコー】
ギリシア神話のエコーはゼウスの妻のヘラにへらず口をたたいてしまった罰として、相手の言葉を繰り返すしかできなくなった森の精霊(ニンフ)です。美しいナルキッソスに恋をするのですが、エコーは言葉を繰り返すばかりです。トマス・ブルフィンチ(Thomas Bulfinch, 1796年7月15日―1867年5月27日)の文章を引用しましょう。
Narcissus "Who's here?"
Echo "Here."
Narcissus "Come."
Echo "Come."
――Thomas Bulfinch "THE AGE OF FABLE" XIII. Nisus and Scylla—Echo and Narcissus—Clytie—Hero and Leander
ナルキッソス「誰かいるの? ここに」
エコー「ここにいるわ」
ナルキッソス「来て」
エコー「行くわ」
言葉というものは実に多彩です。
cf.
『「あまり一生懸命になるな」という話』
https://note.mu/ichirikadomatsu/n/n081dd28c9a6c
【以心伝心】
仏教の禅(ぜん)に「以心伝心(いしんでんしん)」という言葉があります。原典は圭峰宗密(けいほうしゅうみつ、780年(※)―841年)の『禅源諸詮集都序(ぜんげんしょせんしゅうとじょ)』(※)ですから、そうとう古い言葉です。
【要確認】※780年――784年ともあるので、確認します。
【要確認】※『禅源諸詮集都序(ぜんげんしょせんしゅうとじょ)』――出典を確認します。
「以心伝心」は「心を以(もっ)て心を伝える」→「心を使って心を伝える」ことですから、テレパシーのように「こちらが何もしなくても相手は分かる」ということではありません。そんなの嘘です。そもそも「こちらのことを100%分かってくれる」なんてこと自体が幻想です。
必ずこちらから何らかの行動(アクション)があり、それが相手に伝わります。良くも悪くも。
【伝える内容】
繰り返しますが「以心伝心」は「心を以(もっ)て心を伝える」です。では「何」を伝えたのでしょうか。
もとは禅の言葉ですから、師が弟子に伝えたかった答えは「真理」です。ただ、その真理がどういったものかを言語で伝える術(すべ)はありません。たとえば、暗闇を照らす月を真理とするなら、人のうちにある心という器の水面(みなも)に映る月のように、それぞれの真理はあり、触(ふ)れることはかないませんが確かにあるのです。月を指さす手はいくつもあり、ですが月はたった一つなのです。
「真理はいつも傍らにあるのに、見えず聞こえない。遠くまで探しに行くと、家で待っている。お茶目なヤツである」
https://twitter.com/ichirikadomatsu/status/482384010358710274
ずっとずっと昔のことですが、真理は誰でも見ることができましたし、触(ふ)れることさえできました。ですがあるとき、無頼の輩(ぶらいのやから)が必要以上に見て触(さわ)ったのです。慎(つつし)み深い真理は、それからというもの誰からも見えないように触(ふ)れられないようになってしまいました。ですが、いつでも望む人のそばに佇(たたず)んでいるのです。やわらかな微笑みとともに。
荘子(そうし)の『荘子(そうじ)』「秋水篇(しゅうすいへん)」に真理の話があります。
「井蛙不可以語於海者、拘於虛也。夏蟲不可以語於冰者、篤於時也。曲士不可以語於道者、束於教也。今爾出於崖涘、觀於大海、乃知爾醜、爾將可與語大理矣」
「井蛙は以て海を語るべからざるは、虚に拘ればなり。夏蟲は以て氷を語るべからざるは、時に篤ければなり。曲士は以て道を語るべからざるは、教えに束ねらるればなり。今爾は崖涘を出でて、大海を観て、及ち爾の醜を知れり。爾将に与に大理を語るべし」
「井の中の蛙と海を話せないのは、凹みしか知らないから。夏の虫と氷を話せないのは、暑い季節しかいないから。考え方がおかしい人と道を話せないのは、偏見にとらわれているから。今あなたは川岸を出て、大海を見て、自身の愚かさに気づいた。ようやく一緒に真理を語ることができる」
ですが、毎回毎回、真理の話をされたらどうでしょうか。
少し肩の力を抜いて、自然のままに話すほうがいいですよね。
【伝えるためには】
いつどこで誰が何を言ったかで、伝わることも伝わらないこともあります。
〈天の時、地の利、人の和〉
孟子(もうし、紀元前372年―紀元前289年)の言葉が書かれている『孟子(もうし)』の「公孫丑(こうそんちゅう)」に「天の時、地の利、人の和」があります。
「天時不如地利、地利不如人和」
「天の時は地の利に如(し)かず、地の利は人の和に如(し)かず」
「天が与える時であっても地の利には及ばないし、地の利であっても人の和には及ばない」
「天の時、地の利、人の和」は、イコール「時代、背景、人物」ですし、それはつまり「時期、環境、人格」です。
天命を知り、知己を得ても、人は常に惑うものです。
天命とは、その時が来たら自然に開かれる運命の事です。
個人の感情や思惑とは、全く関係ありません。自然と開かれます。
伝えるためには、こうした「天の時、地の利、人の和」「時代、背景、人物」「時期、環境、人格」を考えなくてはいけません。
たとえば、アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler、1889年4月20日―1945年4月30日)総統は20世紀の有名な独裁者ですが、自動車高速道路のアウトバーン(Autobahn)を造り、フェルディナント・ポルシェ(Ferdinand Porsche 、1875年9月3日―1951年1月30日)が設計したフォルクスワーゲン・タイプ1(ビートル)を開発させました。少なくとも自動車業界には貢献した訳です。ですが、国家社会主義ドイツ労働者党(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei(NSDAP))が何をしたか知らない人はいません。
ただ、「時期、環境、人格」といったものは、半分近くは運に左右されます。もっとも、『史記(しき)』に「断じて行えば鬼神も之を避く」とあるように、半分を超えることはありません。
※「断じて行えば鬼神も之を避く」――『史記』「李斯列傳」に「斷而敢行、鬼神避之」とあります。
〈まず受け取る〉
自分から相手に伝える前に、まず相手から受け取ることから始めましょう。
けっこう「時期、環境、人格」にあわせて他人(ひと)は言ってくれているものです。
もちろんインターネットでは、ぜんぜん関係ない人たちからぜんぜん関係ないことで非難されることも多いです。
「下品な人は不要」ですから、通報すればいいです。インターネットであっても実社会には違いありません。インターネットの世界はリアルです。今や虚構の世界など個人の頭の中にしかありません。そうした困った人はそうした役をわざわざやってくれています。
見習いたくない人生の人が近くにいたら、わざわざその役をしていただいてと感謝することです。なぜなら自分ではなれない役だからです。私たちが決してやりたくないようなイヤな事をして、私たちを啓蒙してくれています。
そうした人の特徴が三つあります。
1.最悪を考慮した危機管理をしていない。
→他に迷惑がかかると考えられない。
2.毎回立ち位置を確認していない。
→過去ラッキーだったのを自己の実力と考え、足下を見ていない。
3.不備を指摘されると感情的になる。
→歴史は語る。
マイナスのプライドに執着するより、あっさり考え方を変えて行動するほうがよほど楽です。
まずこちらが受け取る体勢になっているかがとても重要です。
〈慮る〉
「慮る」という字を読めるでしょうか。
「おもいはかる」の音便(おんびん)で、「慮(おもんぱか)る」と読みます。よくよく考えることです。
伝えるときに「慮る」のは、自分のことではなく、相手のことです。
その人の「時期、環境、人格」にあわせて伝えているでしょうか。杓子定規(しゃくしじょうぎ)に伝えていたのでは、伝わるものも伝わりません。いわゆるTPOです。
TPO――Time(時間)、Place(場所)、Occasion(場合)はもとは服飾の言葉です。
伝えるにしても、時間や場所や場合を考えるべきでしょう。
文体も気になります。
”It is only shallow people who do not judge by appearances.”
「見た目で判断しないのは、浅はかな人間だ」
こちらは、オスカー・ワイルド(Oscar Wilde、1854年10月16日―1900年11月30日)の『ドリアン・グレイの肖像(The Picture of Dorian Gray)』(1890年)の一節です。
伝えるのに必要以上に美辞麗句を並べなくても構(かま)いません。
オスカー・ワイルドは、続けてこう言っています。
”The true mystery of the world is the visible, not the invisible....”
「世にある真の不可思議は目に見えるものであって、目に見えないものではない」
どうか相手に伝えることができますように。
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【参考文献・資料】
新村出『広辞苑 第五版CD-ROM版』(岩波書店、2000年)(EPWING規約第6版準拠)
藤堂明保、松本昭、竹田晃編『漢字源』(学習研究社、1993年)(EPWING版)
谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』(角川書店、2003年)
ブルフィンチ(大久保博訳)『ギリシア・ローマ神話』(角川書店、1970年)
Thomas Bulfinch "THE AGE OF FABLE"(1855年)
圭峰宗密『禅源諸詮集都序(ぜんげんしょせんしゅうとじょ)』
『荘子』
『孟子』
『史記』
Oscar Wilde "The Picture of Dorian Gray"(1890年)
※【要確認】は手元に調査資料(エビデンス)がないので、原典を調査(リサーチ)する案件です。
780年――784年ともあるので、確認します。
『禅源諸詮集都序(ぜんげんしょせんしゅうとじょ)』――出典を確認します。