「流転と幽玄」という話_24510
「流転と幽玄」という話
まずは、Apple Inc. の二つのCMをご覧ください。
1984 Apple's Macintosh Commercial (HD)
https://www.youtube.com/watch?v=VtvjbmoDx-I
Crush! | iPad Pro | Apple
https://www.youtube.com/watch?v=ntjkwIXWtrc
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二番目のCMからお話ししましょう。
Appleの伝えたいことは分かります。
「コレ一台で楽しめすまよ」です。
けれど、これは悪手(あくしゅ)です。
すぐに反響がありました。
私のいう「AppleがつくってきたMacは、Macintoshは、他の犠牲の上にあるべきものではない」とは、最初のCMです。
英国の作家ジョージ・オーウェルは小説『1984』によって、管理社会がどのように恐ろしいものかを描きました。
※十代に読んでおくべき本です。
それに対して、そんな不安な未来ではなく、現実の1984年に「Appleが変えますよ」と宣言したのです。
1984 Apple's Macintosh Commercial (HD)
事実、IBMは一般ユーザーが使うPCから撤退しました。
けれど、そのAppleのiPhoneは日本人の多くが使うものとなっています。
TRON(トロン)プロジェクトは、坂村健(さかむらけん)工学博士によるコンピュータ・アーキテクチャ構築プロジェクトです。
簡単にいうと、何でも使えるコンピュータの基礎です。#正しくはない
世界で数十億の機器に採用されています。
古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスの思想に「万物(ばんぶつ)は流転(るてん)す」があります。
「誰も同じ川に二度入ることはできない」というのです。
当然、川には水が流れていますが、その水とはもう二度と出会えないのです。
こうした考え方はキリスト教の強い思想以前にあります。
日本人が日常生活以前に、ぼんやり八百万(やおよろず)の神々を畏(おそ)れているのち近いでしょう。#正しくはない。
欧州の貴族の屋敷で一枚皿が欠けたら、買い直します。欧州の磁器メーカーの食器はシリーズで揃えられており、個別売りもしていますから買い足せるのです。
当然ながら、ホストの皿と客の皿は同じもので、別の機会では入れ替わることもあるでしょう。
およそ日本人の考え方とは異なります。
(だから異人(いじん)というのですが……。)
日本であれば、家族それぞれの箸や茶碗があります。湯飲みもそうです。
箸置きでさえ、その人が選んでいます。
しかも、お客さん用には客人用の食器がまた別にあります。
家人が客人用の食器を使うことはありません。
私が幼いころ誤(あやま)って茶碗を割ってしまって、気に入ったのを買うまで、お客さん用の大人の茶碗でご飯を食べたときに「ああ客用の食器に子供用はないんだ」と思いました。
これはまあ、客人はすべて大人扱いであるという礼儀でしょう。
(店舗や旅館なら違うでしょうけれど。)
また、家族が食器を入れ替えることもありません。親の食器を子供が使うことは絶対にありませんしし、その逆もありません。
子供用でさえ、その人用の食器があります。
考えてみれば、美徳ではなく単に量がないだけなのですが……。
そこに愛着を感じるのが日本人です。
自分と(家族であっても)他の人という感覚があります。
「日本人は協調性がある」と言われますが違いますよ。自分の領域(テリトリ)が極(きわ)めて狭いんです。
まあこれは島国であるということと、差別されては生きていけなかったという歴史があります。これは他で話していますので割愛します。
こうした思想がありますから『播州皿屋敷(ばんしゅうさらやしき)』や金継ぎのような風情はありません。#品がない
浄瑠璃(じょうるり)の『播州皿屋敷』で、お菊は〝皿を隠され〟ます。
「〝皿を割った〟ことを咎(とが)めた」訳ではないのです。
そもそもそんな大切な皿を割りませんよ。日本人は。大切に大切に隠しておくのです。←日本の贋作のうちゃうちゃにつながるのですが、それはまた別の機会にしましょう。
日本人は故意に食器を割るということはありません。
アニメ『巨人の星』で、星一徹(ほしいってつ)が卓袱台(ちゃぶだい)返しをしていますが、まったくの創作(デマ)です。
貧乏でその日の稼ぎもないのに、卓袱台をひっくり返すことなどできないのです。
というのも、そんなことをすれば父の威厳がなくなるからです。
星明子(ほしあきこ)は弟の星飛雄馬(ほしひゅうま)を連れて家を出て行くでしょう。
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「コップを割りました」と「コップが割れた」の違い
洗い物をしていて、コップが割れたとき日本人だけが「コップを割りました」と言います。
米国人も欧州人もそうは言いませんし、中国人も「コップが割れた」であって「故意(こい)」(わざと)にやった訳ではないというのです。
cf.
金田一春彦『ホンモノの日本語を話していますか?』(角川書店、2001年)P87
これを金田一春彦先生は日本人の美徳だと考えておられるようです。
ここでもそうですが、自分個人ではなく一歩引いた、社会性のある仮面があるように感じます。
これを私は「ゆるしの文化」と名付けています。
米国のルース・ベネディクトは『菊と刀』で日本の文化を「恥の文化」と定義していますが、これは西欧人から観た感覚です。
欧米の原罪から罰せられて生きている思考(「罪の文化」という色眼鏡)で、ゆるされて生きている人間を観察すると「恥」に見えてしまいます。(罪を知らぬ異教徒ですから。)
「ゆるしの文化」の〈ゆるし〉とは、「第三の視点」による許可や罪の赦(ゆる)しや審理・判決を意味します。
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日本人にとって、金継ぎは大切なものを割れる前以上に いつくしむ(愛しむ、慈しむ)ことですが、彼らにとっては うまく(美く、巧く)修繕しているだけです。
金継ぎをするのに大切なものを割るようなことをしません。
「金継ぎしたほうが美しくなるから」と考えて割った人がいたら「頭がおかしい」と考えてしまいます。
西欧の流転の考え方を言い換(か)えると「上質のものを手に入れるために不死鳥(フェニックス)のように再生させる」となります。
不死鳥(フェニックス)は寿命が近づくと、自ら火に飛び込み自らを再生させます。
西欧人は、生から死に向かう工程を楽しむことはありません。技術を好むことはあっても、常に今の最高を求める訳です。
西欧人はけっこう気が早いというか、刹那(せつな)的です。
とはいえ、東アジアの人も気が長いとは言えません。
『列子(れっし)』に「愚公(ぐこう)山を移(うつ)す」の言葉を残す中国人でさえ目先の利益に飛びつきます。
愚公(ぐこう)が家の前にある邪魔な山を崩しはじめたのですが、人の手では何年かかるか分かりません。人は笑いましたが、子々孫々つづければいつかは成功すると答えました。その志に天帝が一夜に山を移したそうです。
『孫子』にあるように「戦わずして勝つ」――相手の自滅を待つほうがいいのに、先に手を出して失敗する歴史があります。
これは中国が一族で生きているからです。うかうかしていると他の一族に利益を盗(と)られるので、先に獲(と)らないといけないのです。
その点、やはり千年以上の歴史があるからでしょうか、日本人は悠久(ゆうきゅう)という時間感覚があります。
栄枯盛衰(えいこせいすい)――『平家物語(へいけものがたり)』の「盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)を顕(あらわ)す」という思考があるのでしょう。
また、北宋の范仲淹(はんちゅうえん)の「先憂後楽(せんゆうこうらく)」という考え方もあります。
※後楽園(こうらくえん)の由来です。
大陸中国とは海を隔(へだ)てていたので、理想だと位置づけることができたのでしょう。
その理想の境地を、的確に表現する言葉を日本人はもっていません。
幽玄(ゆうげん)とも言われますが、そうしたものは言葉にすべきではなく心のうちにあって、自らの行いによって表現するからです。