従右脇生
1980年代後半から1990年代にかけてザ・ブルーハーツとうバンドが活躍しておりました。
私も好きで良く聴いており、たぶん私と同じ世代の方であれば、大方彼らの歌を何曲かは歌えると思います。
彼らの歌に「青空」と言う歌があります。若い頃は特に何も考えず聞いていました。
僧侶となり歳を重ね改めてこの歌を聴いてみると、歌詞の中にはいろいろと考えさせられる言葉が並んでいる事が分かってきました。
特に印象的なのは
生まれた所や 皮膚や 目の色で いったいこの僕の 何が分わかるというのだろう
の部分です。
見出しに書きました「従右脇生」とはお釈迦様の生まれた状態を表しています。
お経の中でお釈迦様はお母様の右脇から生まれたとあります。
以前にカズレーザーと名乗るタレントがテレビ番組でこの話をしているときに、お釈迦様よりお母様がすごいと言われていましたが、現実であれば私もそう思います。
お経の勉強をしている時に右脇から生まれるという事は身分の高さや存在の希少性を表していると教えてもらいました。王家と言われる存在に方々は、普通に生活をしている一般人と同じでは、いろいろな不都合が生じる、そんな時代だったのかもしれません。
人間社会にはたくさんの差別があります。
生まれた所から来る差別、生まれた人種による差別等もありますが、それだけに留まらず、成長して行けば文明社会から発生した学歴差別や職業差別等も出てきます。
残念な事ですが、人間社会において差別は切り離せない物だと思います。
この現実を不平等と言われる方もあります。文明を手に入れ、その中で社会生活をしている我々には不平等を小手先で幾分改善する事は可能だとは思いますが、根本解決には至らないと思います。実際に不平等を批判し平等を掲げた共産主義国家は、北朝鮮とベトナムという軍事独裁政権の国家以外、総て崩壊してしまいました。
崩壊の理由は富の偏りが原因というという、人間らしい終わりかたでした。
文明を持つ事とは、自己を持つ事であり、仏教的な表現をすれば煩悩を持つことになります。
差別が素晴らしいとは思えませんが、全否定もできない現実があります。
煩悩も同じです。煩悩無しでは人間の生活は難しいです。
差別も煩悩も人間の性であり、自分や社会から無くす事で何かスッキリする様なものではなく、引き受けて活用する事でより豊かに生きるきっかけにするしかないと思います。
お釈迦様は高い身分が災いとなり、思春期に生老病死を学んでおります。
表現を変えればそんな年になるまで、そんな事も知らなかったのかとなります。
私達は普通に生まれ幼少期より日常生活の中で、お年寄りや年下と交わる生活を送る中で、生老病死を肌で学んできました。
お釈迦様より早く生老病死については学べている可能性が高いです。
私はお釈迦様より先に学べているという、どうで良い事を比べて優劣をつける姿があれば、そのいやらしさを差別といいます。
本当に大切な事は、常にそこに気付きがあるかどうかだと思います。
総ては師、総ては鏡。
気付いて往く教えが仏教だと思います。