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僕が一の湯に転職した理由

こんにちは、箱根一の湯営業・広報担当のなにしです。一の湯に来て今年の3月で3年になります。

先日お客様からいただいた嬉しいお手紙を拝見し、なぜ一の湯への転職を決断したのかを思い出しました。目まぐるしい毎日で過去を振り返る余裕もなかなかありませんが、今日は少し自分語りをしたいと思いますので、少しお付き合いください。

前回のお話はコチラ↓

電機メーカーの経理部から箱根の旅館へ

前職は大阪の電機メーカー(インフラ系重電機器の製造メーカーです)の経理部で2010年から8年間勤めました。2009年当時の就職活動はリーマンショック直後で、非常に苦労をしました。やっていた仕事内容は主に原価計算と決算業務、そのほかには経理ワークフローシステムの構築や会計システムの導入、保守運用を行なっていました。経理部は残業体質な会社が多く、自分の会社もなかなかに忙しく、残業代と基本給がほぼ同じなんてこともありました。

ただ会社自体は安定していましたし、継続的に給料も上がり続けており、良い会社だと今でも素直に思っています。今でも同期・同僚とは仲良くお付き合いしております。

しかし、仕事のやりがいはというと、残念ながらNOでした。BtoBメーカーの経理部というのは本当に「The間接部門」です。メーカーの主役は製品であり、それを作る開発部や技術部であると僕は認識していました。一方で経理という仕事は会社を守る大事な仕事であることは頭ではわかっていながらも「自分の仕事でどこの誰が喜んでいるんだろう?」と常に感じていました。

経理部などの間接部門の総合職社員の定型出世ルートは、30代までは本社や事業部の企画部門で経験を積み、40代に国内や海外子会社の管理部長を経験し、本社に戻り課長となり、その後またどこかの子会社に赴任し、また本社に戻ってきて部長になり、そして役員へというのがわかりやすい出世ルートでした。

この流れを否定するつもりは全くありませんが、「なんか違う気がするな」と感じていました。一言で言うと「一生主役にはなれんな」という感じとでもいいましょうか。
(一つの会社で定年まで勤め上げることを否定するものでは全くありません)

そんなモヤモヤを日々感じつつも、会社を辞めるほどでもなく仕事を続けていましたが、2016年に色々と人生を考えさせられる出会いと別れに直面します。

父の死、第一子の誕生、そして再会した2016年

僕の父は損保業界で働いており、片手じゃ数えられないくらい転職をした口です。そんな父が定年直前に亡くなったのが、2016年。突然でした。

急に置いてかれるというのは切ないもので、今でもたまらなく恋しくなる時があります。生きている時は鬱陶しかったのに、まさに「親孝行したいときには親は無し」です。

父の葬式の時に、会社の同僚だった方からお話を聞き、今まで知らなかった社会人としての父の一面を知り「あぁ、いい仲間と仕事してたんだ」なんて、ちょっと救われた気持ちになり、尊敬の念を感じました。

そんな父の死で痛烈に感じたことは「人って簡単に死ぬんだな」ということです。もしかしたら自分も明日死ぬかもしれないと思うと、やりたいことをやって生きていかないと後悔するな。そう思いました。

そして、その年の夏。大学の母校の部活の100周年記念行事があり、その時に現社長と大学卒業以来約6年ぶりに京都で再会することになります。そう、僕と社長は大学の部活の先輩後輩の関係なのです。その夜、飲みの場で軽く「一の湯来てよ」と誘われ、自分としてはまんざらでもなかったのを覚えています。そのご縁で今があります。

そしてさらに3か月後の、2016年9月。第一子となる長女が我が家に誕生しました。この子を父に見せてあげたかったというのは言うまでもありませんが、父と入れ替わるようにしてこの世に生まれてきた子を前にして、父親になった自分と今後の自分の人生について考えさせられました

連日夜10時過ぎまで残業して、帰ってすぐ寝て起きて、眠たい目をこすって会社に行き、誰のためになっているのかよくわからない仕事をする。

「これ、大きくなった自分の子供に見せられるんか?」

とやっぱり思わされました。そのころから転職することを真剣に悩み始めます。

一の湯の将来に魅力を感じ転職を決断

現状の仕事に不満があったことや家族のことが転職のきっかけではありますが、やはり一の湯の将来に魅力を感じたというのは間違いありません。

社長(当時は常務)と話していく中で、いい意味で普通の旅館ではない異端児的な一の湯に魅力を感じ、今後伸びていく業界(当時はコロナのコの字もありませんでしたから)で、自分自身色々な経験をして、右から左にエクセルを転がす人ではなく、立派な社会人としても成長し、会社の成長にも貢献したいと思いました。

BtoBとBtoC(とりわけサービス業)の差はやはり「顧客が目の前にいる」ということであると思います。良いことも悪いこともダイレクトにお客様からの感謝やクレームという形で反応を得られます。「自分の仕事でどこの誰が喜んでいるんだろう?」なんて、寝ぼけたことは言ってられません

そんなダイレクトな反応が欲しくて一の湯にやってきたんだよなと、先日お客様から頂いたお手紙が思い出させてくれたわけですね。

それから色々紆余曲折を経て(退職届が塩漬けにされるなど、退職の意思表示をしてからなかなかやめられず...)2018年1月に退職し、2018年3月に一の湯に入社しました。

父が亡くなって居なければ、子供がその年に生まれていなければ、部活の100周年行事がなければ、もしかすると違う道を歩んでいたかもしれません。不思議なもんです。

最後に

やはり忘れてはいけないのは妻の理解です。僕自身は地元は名古屋、大学は京都、社会人は大阪と地元を離れ10年以上暮らしていましたが、妻は奈良で生まれずっと奈良で暮らしていましたので、地元を離れるという決断をよく理解してくれたと感謝しています

奈良から神奈川に引っ越してくる車の中で、寂しいと言って泣いていたこと忘れません。本当に感謝しかありません。


ということで、今回は一の湯に転職を決めた経緯を書いてみました。

コロナで色々と不透明な状況ですが、一の湯に転職してきたことを1ミリも後悔していません。結果を出すために毎日大変であることは間違いないですがっ!

さあ、また気持ちいれて頑張っていきますよ!それではまた!


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