見出し画像

canの意味は日本語にありません

canの概念は日本語にありません。
どう言ったことでしょうか?
ひょっとして、あなたが、この記事に興味を持ったのはcanに不可解なものがあると感じているからではありませんか?
本記事でその漠然とした不可解を明確にし、解明します。どうぞ最後までお付き合いください。

では、canとは何なのか??
それは
ドラクエやファイナルファンタジーのコマンドのように『選択実行可能なコマンドがある
と言う状態の描写です。

「たたかう」、「まほう」、「アイテム」、「そうび」、「にげる」

という、五つの選択実行可能なコマンドのうち、例えば「にげる」というコマンドがあると言う描写なのです。
それなのに、現学校教育のように、その背景を説明せずに、「にげる」と言うコマンドだけに注目させ、論じ、canという概念が無い日本人に考えさせ、学ばさせるといのは、きわめて言語能力が高い人しか理解できません。事実、私は誤解し続け、mayとの違いにずっと混乱していました。(→canとmayとの違いはココのリンク先参照)

しかも、canは、それは実行を意味しない。まだ「にげる」選択をしておらず実行していないのです。
文法書で「潜在的な能力」と説明され、確かにその通りですが、あまりにも抽象的です。

さらに、canを『出来る』という日本語にあてたが為に、結果的に、過去時制のcouldが『出来た』となってしまい、誤解されていますが、真実は過去のその時に、そのコマンドを選択実行可能だったという表現だけで、実際にその行動をやったとは言っていないのです!なんと!!
過去形になっても、そのコマンドを実行してません。
日本語に惑わされていると信じがたいですが、couldはその過去の時、その行為をやった、完遂したと言うことではないのです(考えてみればcanが時制が過去にズレただけの意味だから当然なのです/正確には「できる状態だった」)。過去形になったのは、その選択コマンドがある状態です。
実際、やったかもしれない(いや、やったから実行可能なコマンドとなった)、でもそういうことをcouldは表現していない
その日本語の『出来た』という完遂と意味が同じなのは"be able to"の過去時制です。
(その他の→couldの可能性の用法についてはココのリンク先参照)

それではなぜ、現日本語英語は、couldを「出来た」と日本語で表現し続けているのでしょうか?
それは、日本語でもまず、そういう意味で取らないその時やれば出来たの「出来た=〜することが出来た」からだからなのです(先の例だと、逃げようと思えば「逃げれた」)
それをはっきり明言しないって、一体どういうことでしょうか。酷くないですか?

つまり
日本語の「出来た」には、a:実際にそれをやったと言う完遂の意味と、b:ヤレと言われれば「出来た」、やれば「出来た」とかの未完遂の『出来た』の二つ意味が取れます。「出来た」と聞いて日本人はまず、100%  aの意味を取りますが、couldの意味はaではなくてbなのです!!日本語として滅多にそう取らない意味の出来たの『出来た』なのです。この超重要事項をハッキリ言わない日本語英語はどうよ?まったく、チャブ台返ししたくなる。

I could swim all the way across Walden Pond in my youth.
若い頃の私の水泳能力の一側面描写。選択コマンドの内の一つだから、背景として、池で、海で、川で泳げた、もしくは、ジョギングしたり、サイクリングしたり、走ったりとか運動能力のいろんな実行可能なコマンドとしてあったうちの能力の一描写。この「泳ぐことが出来た」は泳いだと言う完遂を意味しているのではなくて、若い頃、泳ごうと思えば泳げたの『出来た』。それがcouldの『出来た』なのです
※以上のcouldの真意がわかれば、couldの『過去一回限りの出来事には使えない』というナゾの現象が理解できます。詳しくはココをクリック

can(could)が混乱する原因は以下の三つ。

1.canの概念は日本語には無いと断言されていない。
2.日本語にはないのに安易に「出来る」という日本語にあててある。
3.canを説明するのに、canを含む一文しか出されない(背景説明がない)。

ここまで読んでくれてありがとう。
お疲れ様でした。
あなたに幸あれ


いいなと思ったら応援しよう!