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夏の淡雪が消えるまえに 第2話

久しぶりに外を散歩してみよう。そう思ったのは、きっとあの書庫を訪れたせいだろう。毎日、「どんなおもしろいことがあるんだろう」とわくわく胸躍らせて過ごしていた幼いころの自分が懐かしくなり、「なっちゃんには、この辺りを散歩するだけでも楽しいと思うわよ」と笑っていたおばあちゃんのことをふと思い出したのだ。「この辺り、散歩してきてもいい?」と言った僕を、お母さんは「気をつけて、いってらっしゃい」と送り出してくれた。

ぎしっ、ぎしっと田んぼのわき道をゆっくりと歩く。今日も日差しはきついけれど、吹き抜ける風は少し伸びた僕の髪をもてあそびながら通りすぎていく。青い空と白い雲、延々と耳に響くせみの鳴き声、風に乗って香ってくる田んぼ独特の泥くさい香り。それは、何度も見て、聴いて、感じたことがある懐かしいものばかりだ。この辺りは民家同士も離れていて、家のまわりには本当に緑しかない。

この道を真っ直ぐ歩いていくと、大きくそびえ立つ山がある。田んぼ道を抜けた先には、小川が流れていた。水面は陽の光を反射してきらきらと輝き、透き通った水が小さなせせらぎをつくって流れていく。ただの小川だ。けれど、僕の目にはそれがとても眩しく見えた。綺麗だと、そう思った。少し坂になった土手を降りて、きれいな水に手を伸ばす。触れた水は思ったよりも冷たかった。しばらく手をつけたまま流れる水を眺めていたけれど、何か動く物体が見えた瞬間、サッと勢いよく手を引いた。魚? かに? 何かは分からないけど、虫だったら嫌だなと思い、僕はもう川に手を入れるのはやめてしまった。この川は見ているだけでも、十分僕の心を癒してくれる。それでよかった。

「もう、ええの?」

そのとき、急に後ろから高いソプラノの声が聞こえた。驚いて振り返ってみると、そこには、白いワンピースに麦わら帽子を被った女の人が立っていた。年は僕よりも十くらい上にみえる。大人っぽくて、綺麗な女の人だった。

「気持ちええよ、入ってみたら?」

彼女はそう言うと、ニコッと笑みを添えて僕を見つめた。

「……」

知らない人に話しかけられて、返事にこまる僕。初対面の人との会話は苦手で、何て返したらいいか分からない。しかも、かなりの美人だし。

「ああ、ごめんごめん。いきなりでビックリしたやんな」

彼女は少しすまなさそうな顔色を見せて、麦わら帽子をとった。帽子をとると、影になっていた顔に明るさが増し、より一層整った顔が際立って見える。

「うち、朔耶っていうねん。きみ、この辺の子?」

透明感があって可憐な見た目の彼女が話す関西弁は、どこか違和感があった。

「僕は……夏輝です。最近ここに引っ越してきたばっかりで」

「そっか」と彼女は言うと、今度は川を指さしてこちらを見る。

「入ってみたら?気持ちええよ、夏の川は」

初対面にも関わらず、そんなことなど気にもしていない様子の彼女は、警戒心のない笑顔を僕に向けてくる。その笑みに、息が一瞬止まる。まぶしい。それは少なくとも、いまの僕には毒だった。

僕はスッと立ち上がり、ハーフパンツについていた土を払った。

「また、今度にします……っ」

すみません、と頭をさげて彼女の隣をすり抜ける。「あっ!」と後ろから声が聞こえた気がするけど、僕は振り返らずに、その場から逃げるように走り去った。

行きはゆっくりと周りの景色を堪能しながら歩いた道を、いまは全速力で駆ける。別に後ろから彼女が追いかけてきている様子はない。それでも、あの場所からできるだけ遠くに離れたくて、無我夢中で走る。なんで逃げちゃったんだろう。「そうなんですか?」とか、何か気のきいた返事でもすればよかったのに、これじゃあ、きっと変に思われたはずだ。ああ、なんか情けない……。自分が嫌になる。自然の中を歩いて少し気持ちが楽になったかと思ったけど、もう自分が何をしたいのか、どうしたいのか訳が分からない。泣きたい。

家についた僕は門の前で足をとめて深呼吸をする。乱れた息が整うまで、そこでしばらく立ち止まり、塀にもたれる。空を見上げると、こんな僕に関係なく、晴れ渡った清々しい青。何と比べても、自分が劣っている存在のように思えて、自然と顔は下を向いた。

**********

次の日の朝。お母さんに「洗濯するから洗うものあったら、出しといてね」と言われたので、昨日はいていたハーフパンツを洗ってもらうことにした。そういえば、ポケットの中に鍵を入れたままだ。そう思って手をつっこんでみたけれど、目当てのものはそこになかった。

「あれ?」

昨日家を出るときに、確かに鍵は入れたはず。鍵には、昔おばあちゃんからもらった赤い勾玉がついたストラップをつけている。そんなに小さくないから、落とせば気づくはずだけど……と思ったときに、ハッと昨日の出来事を思い出す。

「……もしかしたら、あそこで落としたかも」

仮に鍵を落とすタイミングがあるとすれば、昨日の散歩のときしかない。小川で女の人に出会ったときは慌ててその場から離れていったし、帰り道は全速力で走って帰ってきた。そのときにポケットから鍵が落ちたって、不思議な話ではない。

念のため、部屋のあちこちをぐるりと見渡して鍵がないかを探してみたものの、それがここにありそうな気配はない。部屋から出て、居間や脱衣所、トイレ、台所、中庭と順に歩きまわってみたけれど、やっぱりない。僕は裏にある勝手口を見つめた。また、あの場所に行かないといけないのか。そう思うと、体は自然と重くなっていく気がした。はぁ、と小さくため息をついた僕は、台所にいるお母さんに声をかけた。あの鍵には、おばあちゃんが僕にくれたストラップがついている。前の家の鍵にもつけていたそれは、僕にとってお守りみたいに大事なものだった。

「いってらっしゃい」という朗らかなお母さんの声が聞こえたあと、僕は携帯をポケットにしまって、またあの場所へ向かった。

*********

「確かこの辺りだったはずだけどなぁ……」

小川までの道を歩いてみたけど、その道中でストラップは見つからなかった。あるとすれば、昨日小川の水を触ろうと座りこんだこの辺りにあるだろう。雑草をかきわけて探す。今日の日差しは昨日よりも一層強く、額にはじんわりと汗がにじんだ。喉が渇く。服がべとべとする。不快度指数は高い。

赤い勾玉がついたストラップ。勾玉と一緒にこげ茶色の皮のベルトもついている。それは旅先の土産屋さんで売っているような、量産型のお土産のようにも見える。それでも、僕には大事なものだった。

これは昔、おばあちゃんが死んだときに形見の品としてもらったものだ。生前、僕はおばあちゃんが死んだときに、この勾玉をもらうと約束をしていた。

あれは今日と同じように暑い夏の日のことだった。おばあちゃんと二人で田んぼ道を歩き、花の名前を教えてもらいながら歩いたあの頃。おばあちゃんは博識で、この辺りにある草木の名前や虫の名前を色々知っていた。僕が何かを見つける度に、「これはなんてなまえなの?」と尋ね、おばあちゃんがそれに答える。その繰り返しだった。

歩いているときに、ふとおばあちゃんが山の麓で立ち止まり、山を見上げる。僕もそれにならって足を止め、おばあちゃんと同じように木々が生い茂り、堂々とそびえ立つ大きな山を見上げた。

「おばあちゃん、どうしたの?」

僕が尋ねてみても、おばあちゃんは神妙な顔をして、しばらく黙っていたっけ。その横顔には、どこか悲しいような、寂しいような気持ちが隠れていたような気がする。あのときの僕は幼かったから、本当はどうだったかはよく分からない。だけど、あの時見たおばあちゃんの元気のない様子は、いまでも覚えている。なぜなら、おばあちゃんはいつだって朗らかに笑い、穏やかで、優しい目をしていた。僕の記憶の中にはその明るく、陽気なおばあちゃんの姿しかいなかったからだ。だからこそ、あのときのおばあちゃんの姿だけは鮮明に覚えている。おばあちゃんは静かに目をつむり、山に向かって手を合わせていた。

「ねえ、なっちゃん」

黙っていたおばちゃんが、小さな声で僕を呼びかけた。「なあに?」僕がそう尋ねると、おばあちゃんはにっこりとした笑顔を浮かべ、僕の方を見た。

「ここは緑がいっぱいで気持ちいいだろう?田んぼも、山も、川も、そこにあるだけなのに、心が安らぐんだよ」

僕は言われたことの意味が分からなくて、多分キョトンとした顔でおばあちゃんの顔を見ていたんだと思う。そんな僕を見て、おばあちゃんはアッハッハッと声を上げて笑い、目尻に浮かんだ涙をぬぐった。

「あんたにゃ、まだそんなもん必要ないだろうね」

おばあちゃんはそう言って僕の頭をぽんぽんと撫でた。ふと、おばあちゃんが手に持っていたものが目に入る。「これ、なに?」と僕が尋ねると、「ああ」とおばあちゃんはネックレスのように長い紐がついたそれを見せてくれた。澄んだ赤色の石のようなもの(あのときの僕は勾玉という言葉を知らなかった)が先についていた。陽の光が反射して、それはキラキラと光っているようにも見えた。

「これはね、おばあちゃんのお守り。綺麗だろう?」

おばあちゃんは嬉しそうに笑いながら、僕にそう言った。

「うん!ねえ、おばあちゃん。これ、ちょうだい!」

僕のお願いに、おばあちゃんは僕の頭を優しく撫でながら、「じゃあ、おばあちゃんが死んだら、これはなっちゃんにあげるわね」と言う。

「おばあちゃんがしんだら?」
「そう。それまでは、おばあちゃんが持っていていいかしら?」

本当は「いますぐくれないの?」と言いたかったと思うんだけど、子どもながらにそれをおばあちゃんが大事にしている様子が伝わってきたんだろう。僕は「わかった」と言いとどめるだけにした。

「約束ね?」と差し出された小指に自分の指を絡め、「ゆびきりげんまん」と歌を歌った。おばあちゃんはそのネックレスを首から下げると、僕の手を取り、また歩き出しだした。

あの日の約束通り、おばあちゃんが死んでから、僕はその勾玉を受け取った。長かったネックレスは紐の短いストラップになって、僕の元へとやってきた。欲しいとせがんでもらったものだ。だけど、それを受け取ったとき、僕は涙が止まらなかった。

「もう、おばあちゃんはこの世にいない」

勾玉はその事実を改めて、僕に突きつけるものだったからだ。綺麗な木箱に入ったそれは、あの日の輝きを失わず、美しいままだった。


あれから随分時間をかけて辺りを見回ったけど、結局、僕の探しものは見つからず、肩を落として来た道をとぼとぼと歩いて帰った。何かあると、ポケットに入ったその勾玉を握りしめて、自分の心を落ち着けていた。そんなものがなくなってしまったものだから、どこか不安で落ち着かない。憂うつな気持ちで昨日駆けぬけたこの道を、僕は同じ軌跡を辿るように、今日も憂うつな気持ちで歩いていた。

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