夏の淡雪が消えるまえに 第1話
大嫌いだ、こんなに弱い自分のことなんて。
ここへ引っ越してきてから、もう何度も何度も、そんな言葉が頭の中をかけめぐった。漫画を読んだり、宿題をやろうと机に向かってみたりするけれど、いつの間にか頭の中に浮かぶその言葉にやる気は失せてしまい、ベッドに寝転がってため息をつく。「何とかしなくちゃ」という意識はどこかにあるものの、その何かに取り組むための気力は、なかなか生まれてこない。しまいには、「しんどい、疲れた、何もやりたくない」という状態になり、傍目から見れば怠惰な日常を過ごしていた。
とはいえ、ここにはいまの僕を責める人なんて誰もいない。ただ穏やかな自然と、ゆるやかな時間だけがあるだけだ。いまの状況がどうだからといって怯える必要なんて、これっぽっちもない。だから、問題ないじゃないか。そう自分に言い聞かせて、なんとか自分は悪くないと思おうとしていても、ぐるぐると考えていると、結局、「弱い僕は悪い」という結論に辿りつく。その繰り返しだ。考えるのをやめようと思って眠るようにしているけど、人間ぶっ通しで何十時間も寝られるもんじゃない。数時間眠れば目が覚めて、僕はまた、同じ問いかけを繰り返す。
部屋の窓から見える空は、そんな僕の心とは裏腹に、うらめしいくらい青々としていた。モクモクと発生している入道雲でさえ、うじうじとしている僕をあざ笑うかのように、その堂々とした出で立ちを見せつけているかのように見える。そんな小さなことでさえ、いまの僕の心を弱らせる要因の一つになりかわった。言葉も、ものの存在すらも、僕を簡単におびやかす。
「もう学校行きたくない……。つらい……っ」
ある日、張り詰めていた糸がぷつんと切れて、お母さんの前で泣きじゃくった僕は、ずっと言わないでおこうと思っていた言葉をついに吐いた。自分の子どもがいじめられているなんて知ったら、きっと、お父さんやお母さんが悲しむ。そう思っていたから、言えなかった言葉。でも、「助けて」も「どうしたらいい?」も言えないまま、僕はその重みに耐えられなくなってしまったのだ。吐き出した言葉は支離滅裂でめちゃくちゃだったけど、お母さんはその言葉ひとつひとつに穏やかな相槌を打ち、静かに僕の話を聞いてくれた。
話し終えた後、僕の予想に反して、お母さんはとても優しく、とても温かな声で僕に言った。
「じゃあ、もう学校行かなくてもいいよ」
その言葉に驚いてパッと顔を上げると、お母さんは僕を強くギュッと抱きしめて、「お父さんとお母さんは、いつでもナツの味方だから」と言ってくれた。お母さんのシャツから香る柔軟剤のバラの香り。それが鼻いっぱいに広がって、僕はひどく安心した。ギュッと強くシャツを握りしめ、お母さんの胸に顔をうずめて、久しぶりに大きな声をあげ、その胸の中で泣き続けた。
その後、お父さんが学校へ行って手続きをして、僕の転校が決まった。1学期の終わりだったから、学校はちょうど夏休みに入る。「いいタイミングだったな」と言ったお父さんは、いじめに耐えられなかった僕を責めるでもなく、哀れむでもなく、ただ何事もなかったかのように笑いかけてくれた。それは、今の僕にはとてもありがたかった。随分と救われた。もうあの暗く、じめじめとした悪意に満ちた空間にいなくてもいいんだ。そう思うと、重かった僕の心がほんの少し、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
僕は、1週間前に両親と共にここへ引っ越してきた。お父さんの実家があるこの地には、小学校に入る前に数回来た覚えがある。以前はおばあちゃんが1人で暮らしていたけれど、そのおばあちゃんが死んでからは、僕も学校があってなかなか来られなくなり、お父さんが月に1回掃除にやってくるだけになってしまった。数年ぶりの田舎はあの頃と変わらない自然の美しさを保ったまま、小さくなった僕を出迎えてくれた。
木々が生い茂る山。一面がじゅうたんみたいな畑。いろんな声が混ざり合って聞こえる虫の音。そのどれもが、幼い頃の僕をワクワクさせてくれたエンターテイメントだった。夏休み、お盆の時期に滞在するわずか数日間。それをどれだけ僕が楽しみにしていたか。普段とは違う場所で、いつもと違うことができる。そんな非日常の空間が、幼い僕は大好きだった。
「ナツー、ご飯できたけど食べる?」
コンコンと控えめにドアをノックする音の後、お母さんのカラッとした声が聞こええてきた。僕は「食べる」とだけいうと、ベッドから起き上がり、そっとドアを開けた。そこにはいつもと変わらない、お母さんの姿。いや、「いつもと変わらない風を装ったお母さん」がいた。何年も一緒にいるんだ。お母さんのそんな些細な表情の変化にも気がついてしまう。心配、しているんだと思う。僕が泣いて、お母さんに縋りついたのはあの日だけだった。あの日以降、僕がその話題に触れることはなかったから、こうやって部屋にこもりっきりの僕が気にかかるんだろう。あの時は感情が弾けるように泣いてしまったけど、思い返すと、そんな自分が恥ずかしく、情けなくも思った。だから、自分の口から何かを話すことは憚られて、僕は口を閉ざしていた。
「はい、召し上がれ」
台所がある土間へ行くと、お味噌汁のいい匂いがしていた。靴を脱いで畳の上にあがり、年季の入った古い丸テーブルの上に置かれた自分の箸の前に座る。今日の昼食はプリーツレタスと玉ねぎにトマトのサラダ、昨日の晩ごはんの残りの肉じゃが、きゅうりの浅漬けに、豆腐とわかめの味噌汁、そして白ご飯。こんな状況でも、日が経つにつれ、お腹は空いてくる自分が少し恥ずかしい。最初は喉も通らなかったご飯が、いまでは徐々に食べる量も増えてきた。お母さんはそんな僕をみると、安心したようにふっと小さく笑う。
「いただきます」
手を合わせて、静かにご飯を食べる。扇風機を回しただけの室内はむしっとして暑いけれど、その暑さの中で食べる味噌汁が僕は好きだった。どこか心がほっとする。味噌汁には、そんな効果がある。
「そういえば、昨日お父さんが掃除してたら、納屋の方にある書庫の鍵が見つかったみたい」
「書庫?おばあちゃんがよく使ってた部屋?」
「そう。いろんな本置いてあるみたいだし、あとで見てみる?」
「うん」
僕が小さい頃、ここへ遊びにきたときに、お気に入りだった場所がある。おばあちゃんがよく読書を楽しんでいた書庫だ。小さな6畳くらいの部屋。入ると、両サイドの本棚にはびっしりと本が並べられていて、奥には小さな机とイスが置いてある。僕が扉をあけて中をそっと覗くと、おばあちゃんはそのイスに腰かけ、小さな灯りをつけて本を読んでいた。そんなおばあちゃんの背中を見つけては、「なによんでるの?」と読書タイムを妨げて、おばあちゃんが読み聞かせてくれる物語を、目を輝かせながら聞いていた。それは桃太郎やかぐや姫みたいな童話だったり、おばあちゃんが創作した物語だったりと様々だった。縮れた、少し低い声でつむがれる話に耳を傾ける時間、その緩やかで穏やかな優しい時間も、僕がとても大切にしている思い出のひとつだった。
食後にお母さんから鍵を受け取り、僕はつっかけを履いて書庫へ向かった。書庫の入り口は、日差しの入ってくる中庭側にある。ぎぎぎー、がちゃりと音をさせながら書庫の鍵を開ける。扉を開けると、埃っぽい。主がそこにいないだけで、部屋はこれほど古びて見えるものなんだろうか。けれど、一歩足を踏み入れて入ってみると、あのときを思い出させる独特の香りが鼻をかすめた。
すぐ傍にある本棚の2段目を眺めてみると、江戸川乱歩の『黒蜥蜴』、和食のレシピ本、『俳句研究』、広辞苑など、ジャンルやサイズもばらばらの本がところ狭しに並んでいる。もう何年も掃除をしていなかったから、どの本も埃をかぶって、少しくたびれていた。
僕は、その中で『古事記』と書かれた本を手にとった。なぜだかこの金色に輝く背表紙の文字だけが違ってみえて、誘われるように手が伸びたのだ。くぐもった濃い緑色のカバーは、布生地でできたものらしかった。ところどころに黒い染みがじんわりと広がっていて、その古さを物語っている。ぱらぱらとページをめくる。つるりとした上質な紙は、指の上を流れるように滑っていく。よく見ると、鉛筆で丸をつけたり、波線を引いていたりするところがあった。難しい単語の横には、おばあちゃんの字でその意味が書き記されているようだ。近くにある丸いイスに腰かけて、ゆっくりとページをめくる。もやっとした外とは違って、かすかに入ってくる風が心地いい。僕はただひたすらに、おばあちゃんの字を眺めて、指でそれをなぞり、いまは亡きあの後ろ姿を懐かしんだ。
分厚い本の半分くらいまでページをめくったとき、1枚の紙切れがすっと床へ落ちた。黄ばんだわら半紙のようなそれを拾う。裏を返してみると、そこには何かのキャラクターなのか黒いスライムのような物体が描かれていた。落書き、なんだろうか。いろんな表情で描かれているそれは、体を自由自在に変化させられるようで、木や橋、箱の形に変身しているものもある。おばあちゃんの絵を見たのは初めて見たけれど、なかなか上手い。
「……こんな絵、描くんだ」
何だかこんな落書きをおばあちゃんが描くなんて想像できなくて、少し笑ってしまった。僕はそれを元あった場所に挟み、本を棚へ戻した。それから数十分かけて本棚の本を物色して、気になった本をいくつか手に抱えて部屋を出た。