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テクノロジーのこれからを考えるカギは、過去に目を向けること!?

(この記事は、問いを投げかけたまま答えを示さずに終わる、たいそう無責任な内容です)

テクノロジーのこれからがどんな方向に向かうのか? 今後どのようなテクノロジーが登場し、私たちの生活をどう変えるのか? その過程で産業の構造が、そして私たちの仕事がどのように変化するのか?

テクノロジーのこれからについては、日々、新たな議論が巻き起こっています。しかしその議論は、なかなか一つの方向に収斂することがありません。

「これから」という未来を想像しようとしても、なかなか方向性をしぼり込むことができないんだったら、いっそのこと過去に目を向けてみたら、何かしらのヒントを見つけることができるかもよ。

そういう話です。

これからのテクノロジーを考えるために必要なことは?

テクノロジーをめぐるかつての議論では、そのスタート地点に「こういうことができたらいいな」とか「こうなったらいいぞ」という具体的なニーズがあって、それを実現するには何が必要なのかという大きな方向性がありました。

ところが、(デザイン思考が大きな注目を集めていることからも分かるように)これからのテクノロジーは、そうした差し迫ったニーズとは別のところにある(かもしれない)ニーズを探り出す必要があります。

また、これからのテクノロジーを考えるうえで重要なのは、1コのテクノロジーがスパッとニーズを満たすわけではないということです。

さまざまなテクノロジーが組み合わされ、ネットワークでつながり合うことで、それまでは気づいていなかったユーザーのニーズ(というか経験の質)が見出されるとともに、それが満たされるという状況を想像しなければならない。

つまり、まだ存在しないテクノロジーが他のテクノロジーとどう重なり合うかを想像したうえで、さらにそこから生まれる新たな経験がどのようなものになり、どんなニーズが満たされるのかを2段階で想像する必要がある。

というわけで、基本的にものすごく面倒くさいわけです。

それに、2段ロケット方式の想像(妄想?)を広げようとしても、2段目の想像は格段にむずかしくなるし、「確実にこう変わる」という実感にはなかなかたどり着かない。

だからどうしてもモヤモヤが残る。

だったらいっそのこと、その逆をやってはどうかと思うわけです。

これからの状況ではなく、これまにで生み出された過去のテクノロジーに目を向け、それがどういう具合に他のテクノロジーと結びつき、どのような種類の新たな経験を生み出したのかを考えることで、未来に思いを馳せるうえでの(「確実にこれがこう変わる(かも)」という)ヒントを見つけることができるような気がするんですね。

目を向けるべき過去とは?

では、過去のどんなテクノロジーに目を向ければいいのか?

これを考えるにあたって参考になるのが、1995年に書かれた “Being Digital” の中で(MIT メディアラボを創設した)ニコラス・ネグロポンテが語る「21世紀のテクノロジーの可能性」です。

次の世紀の早い段階で、あなたの左右のカフスボタンやイヤリングが低周回軌道の衛星を使って互いにコミュニケートするようになり、しかもそれらはコンピュータとして、あなたが今、持っているパソコン以上の性能を持つことになろう。

あなたの電話はもう無差別になったりはしない。かかってきた電話を自動的に受け、分類し、さらにあなたが自分でかけると熟練した英国の執事のように応えてくれよう。マス・メディアは、パーソナル化した情報や娯楽を送受信するためのシステムによって再定義される。

学校は、子供たちが世界中の他の子供たちとともに考えを集め、社会化していく博物館か遊び場のようなものに変わっていく。

デジタル化した惑星たる地球は、針の先端のような微少なものになり、そう感じられていく

Negroponte, Nicolas (1995) Being Digital: The Road Map for Survival on the Information Superhighway, London, Hodder and Stoughton, p.6.
(ネグロポンテのこの著書は邦訳が出てますが、ここに示しているのは、
後に引用するシルバーストーンの著書に引用されているもので、
かなり堅い翻訳になっています)

ここに描かれる「デジタル化した惑星」を特徴づけるのは、「さまざまな場所にいるいろんな人の経験がつながり合い、ひびき合い、これまでには存在しなかった大きなまとまりを生み出す」テクノロジーです。

というわけで、さまざまな場所にいる人たちの経験を結びつけ、ひびき合わせることを可能にした過去のテクノロジーにはどんなものがあるだろう? これが第一の視点です。

経験を結びつけ、ひびき合わせるテクノロジーに必要なものは?

では、あるテクノロジーが、さまざまな場所にいる人たちの経験を結びつけ、ひびき合わせるためには、どのような条件を満たす必要があるのでしょうか?

これを、英国の社会学者、ロジャー・シルバーストーンの著書、「なぜメディア研究か --- 経験・テクスト・他者」(原著が出版されたのは1997年)に描かれているテクノロジーの未来を参考にしながら考えてみましょう。

メディアと情報のテクノロジーは、次第に至るところに偏在し、目に見えないものになってきている。

事実、マイクロ・プロセッサーがあちこちの機械に埋め込まれていくなかで、これらのテクノロジーは、機械がどのように作動しているのか、また私たちのために何をしようとしているのかをモニターし、制御し、管理するようになった。

そして、同じように不可視になっていったテクノロジーが相互に結びつけられ、そうした結びつきが維持されるようにもなっている。単体としてのコンピュータや、もちろん単体としてのテレビは、急速に過去のものになっていくかもしれない。

「情報としてのテクノロジー」が出現する。われわれはネットのなかに捕らえられているのである。

ロジャー・シルバーストーン (2003)「なぜメディア研究か --- 経験・テクスト・他者」
せりか書房 p.77

ここから分かるように、さまざまな場所にいる人の経験を結びつけ、ひびき合わせるこれからのテクノロジーとは、「いたるところに存在する」「目に見えない」「相互に結びつけられた」テクノロジーだといえるでしょう。

テクノロジーのこれまでの中に、テクノロジーのこれからを見出す

これからのテクノロジーが生み出す未来を考えること、それは「いたるところに存在する」「目に見えない」「相互に結びつけられた」テクノロジーを想像し、そこから人びとの経験がどのように結びつけられ、ひびき合うのかを想像することに他なりません。

しかし、2段階で想像の輪を広げようとしてもなかなか一筋縄ではいかないし、「確実に何がどう変わる」という確信を抱くことができない。

だとすれば、これからのテクノロジーに求められる3つの条件を満たす(いまでは私たちが「当たり前」だと思って気にもとめなくなっている)過去のテクノロジーに目を向け、それが社会のあり方、私たちの考え方や行動の仕方をどのように変えたのかを振りかえる。

そうするで、新たなテクノロジーから生まれるこれからの社会の姿を思い描くうえでのヒントが得られるのではないかと思うわけですね。

というわけで

  • すでに3つの条件を満たし、いまでは誰もが気にも留めなくなったテクノロジーであって

  • それまでとは社会のあり方を大きく変えたテクノロジー

があるとすれば、それはどのようなテクノロジーだと思いますか?

また、そのテクノロジーは、それまでの社会のあり方をどのように変化させたのでしょうか?

(と、問いを投げかけたままで終わる記事なのです)

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