組織文化の神も細部に宿る 〜 組織文化を変えるためにリーダー・マネジャーに求められる意識と行動とは?
組織文化って厄介な言葉です。
「新たな組織文化をつくる」とか、「組織文化を変える」とか、ビジネスやマネジメントのいろんな場面で使われるわりには、じゃあいったい何なんだとなると、とたんに話がボンヤリする。
いわくいいがく、なかなか変わらないものなので、これをイチからつくったり、変えたりするためには、何か特別な取り組みが必要。
そう考えられがちな文化ですが、よくよく考えてみると、じつは細かく具体的なもので、変わるときにはコロッと変わり、とくに何もしていないように思えるときでも、組織文化がつくられ、下支えされ、強められていたりする。
そうした視点で組織文化をとらえると、ビジネスやマネジメントにおける取り組みのあり方がこれまでとは異なったものになるはず。とくに職場におけるマネジャーやリーダーの役割に関する認識が大きく変わるはずです。
文化って何?
そもそも文化って言葉がボンヤリしてるんだから、組織文化がボンヤリとしたものになるのはしょうがない。
これ、本当でしょうか。
「文化人類学の父」と呼ばれるエドワード・タイラーという人は、文化をこんな風に定義しています。
たしかにボンヤリしてる。ほぼ「何もかも」といっているに等しいから、「文化って何?」には何も答えていない。
とはいえ、「社会の一員として獲得したすべての能力と習性」を含む全体というくらいだから、この「何もかも」論は、ものすごく広い範囲の、やたらと細かいさまざまな日常の場面に文化が姿をあらわすことを示している。
文化がボンヤリしがちな大きな理由の1つは、そのあらわれ方はとても細かく具体的だけど、あらわれる範囲が広すぎることなんですね。
でも、とくに組織文化を念頭に置いて、文化がどのような形であらわれるのかを考えてみると、文化のあらわれ方は、たとえば以下のようなカテゴリーに分けることができます。
「象徴的」な意味というのは、モノやコトバそのものではなく、それ以外の何かをあらわす意味、ということ。
職場の同僚がいつになく真っ赤なネクタイをしているので、「お、今日は気合いが入ってるね!」と声をかける。このとき、光の波長の「赤」に、「気合い」という別の意味が重ね合わせられている。
仕事の関係先の態度に「熱意」を感じたり、「誠意」が感じられなかったりするとき、相手の行動パターンに「熱意」や「誠意」という、行動そのものではない意味を読み取っていることになる。
こうしたモノやコトバ、行動パターンの意味は、相手が誰なのかによっても異なってくるから、「ケースバイケース」な場合が多い。だから理解もボンヤリしたものになりがち。
そのあたりをハッキリさせるには、さまざまなあらわれ方を生み出す、いわば「文化の素」みたいなものが何なのかを考える必要があります。
文化とは「メガネ」である
ルース・ベネディクトという人が、日本を研究した「菊と刀」という本の中で、文化の本質をつぎのように語っています。
どんな社会であれ、社会生活のさまざまな場面でスムーズに事を運ぶためには、目の前の状況をどう判断し、どのように行動すべきか、そして自分の判断や行動がモノやコトバ、行動パターンとしてあらわれたときに、それが相手にどのように受け取られるのかについての共通の理解がなければならない、ということですよね。
「文化の素」とは、生活のさまざまな場面でいろいろな人と関わり合うときの前提となる、心がまえや身のこなしのことだといえそうです。
しかし、こうした共通の了解事項、なかなか自分では意識することができません。ベネディクトによれば、それはいつもかけているメガネのようなものだからです。
かけっぱなしのメガネのような「文化の素」は、集団が共有する暗黙の了解事項(暗黙知)のようなもの。だれも自分の目を意識しないから、どういうものなのかが分からない。文化がボンヤリしたものになりがちなもう1つの理由がここにあります。
クリフォード・ギアツという人は、こうした暗黙の了解事項を「意味の網の目」と呼んでいます。
「文化の素」は、生活のこまごまとした場面のさまざまな人との関わり合いの中でつくられる意味の網の目のこと。これが、状況を判断し、行動し、相手と関わり合うにあたって、「自然」であり「当たり前」なものとして意味づけられた心がまえや身のこなしを生み出している、ということです。
「メガネ」はどうやってつくられる?
国や地域といった広い範囲で暗黙のうちに共有されている、「自然」であり「当たり前」な心がまえと身のこなしが「文化」だとすれば、これが組織内で共有されたものが「組織文化」です。
それは、いわくいいがたいボンヤリしたものでも、特別な取り組みによって生まれるものではなく、むしろ、さまざまな日常の細かく具体的な人との関わり合いによって、つねに生み出され、下支えされ、強められていたりします。
これを考えるにあたっては、(戦前の)日本で行われていた小さな子どものしつけを例に、文化という意味の網の目がどのようにつくられるのかを説明したベネディクトの言葉が参考になります。
ここに描かれているのは、具体的な状況のなかで、他の誰かと関わり合いながら、何が「自然」で「当たり前」の行動なのか、どのような言葉を使い、他の人からどのように「見える(見せる)」ことが正しいのかを、自分なりのトライアル・アンド・エラーを繰りかえしながら学んでいくプロセスです。
組織文化の神も細部に宿る
組織文化についても同じことがいえます。
もちろんそれは、組織文化も戦前の子どものしつけと同じように、きびしく「刷り込む」必要があるということではありません。
大事なのは、集団が文化という暗黙知を共有するプロセスは、教科書を読み、正しい考え方や行動を学んだ後で具体的な行動が生まれるようなものではなく、毎日の職場で他者と関わり合う状況の具体的な細部が、つねに文化という暗黙知を共有する方向に働いている、ということ。
これは、新たな組織文化を生み出したり、これまでの文化変えるにあたって、職場のリーダーやマネジャーが果たす役割がきわめて大きいことを意味しています。
たとえば、目標管理制度のこれまでの評価基準を変え、果敢なチャレンジを推奨し、新たな価値創造をうながしたいという場合、そのねらいは新たな組織文化を創造することです。
ここで、新たな組織文化の「素」になる「意味の網の目」が、いつ・どこで・誰が・どう行動することによってつくられるのかをを考えてみれば、顧客にどんな話をして、何をどのように提案し、どんな成果を生み出すべく努力すべきことが「自然」で「当たり前」なのかを身につけるために、部下が上司との間で行う目標設定面談や期中面談、期末のふりかえりが決定的に重要な役割を果たしていることが分かります。
組織文化は細かく具体的で、いつも通りに面談をしている間にも、組織文化がつくられ、下支えされ、強められているんですね。
組織文化の神も細部に宿る。
そういう意識で、職場のリーダーやマネジャーが日々の部下との関わり合いをとらえ直し、めざす方向へ導くための働きかけを行っていけば、気づけば文化がコロッと変わっていた、という状況を生み出すことがはずです。