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【疑問】純文学ってなんなんだろうね【芸術?】
僕は日常的に小説を書いたりします。
ジャンルとしては純文学の恋愛小説が主。
高校生の頃から純文学を書いている僕なのですが。
未だに純文学というものがなんなのか、疑問に思うことがあります。
「芸術性だ」とか「物語を重視しない」とか色々言われていますが、実際のところ純文学とはなんなのでしょう?
今日は書き手から見た純文学の定義について書いてみようと思います。それでは、参りましょう!
純文学とは芸術?
「純文学とは芸術に重きを置いた小説である」
そう聞くことは多々あります。が、純文学だけが芸術なのでしょうか?
僕としてはそう思えません。大衆小説も立派な芸術作品に分類されると思います。
というのも、大衆小説の中にも純文学らしい文章で構成されているものはあるからです。だから、純文学だけが芸術であると区切られるのはどこか違う気がします。
小説全般が芸術である。ではないかと僕は思います。
純文学は物語を重視しない?
これもかなり言われていますよね。
だから「純文学はつまらない」「オチがなくて面白くない」と言われている気がします。
たしかに純文学はあまり物語性を重視しない傾向にあるかと思います。特に太宰治や芥川龍之介などの近代作家は、物語を重視していないと僕も感じます。
が、その定義もまた現代では変わってきている感じがしますね。純文学でも物語構成が緻密で、伏線をきちんと回収している作品があらわれている気がします。
おやおや、ますます純文学の定義が分からなくなってきました。
純文学ってなんなんでしょうね。本当に。
書き手の視点から考えてみようか
今までの純文学の定義は読み手から考えたものです。
純文学を読んだ意見を結集させた、いわば読み手の平均値的な感想です。
ではそれを書き手からの視点で定義を考えてみたらどうでしょう?
冒頭でも話した通り、僕は主に純文学を書いています。書き手としてはまだまだ未熟ですが、そこそこ純文学には触れてきているつもりです。(読み手としても)
書き手の視点から純文学を定義すると、僕は以下のような結論を出します。
「初稿を書き終え、実際に読み、そのあとの感情の行方が分からないもの」
書き手の視点から定義するとこういうことだと僕は思います。
自分の書いた小説を読んで「心を動かされたとか」「感動した」などという感想が内面に浮かぶのではありません。
原稿を読んで「これはなんだったんだろう」みたいになるのが純文学であると思います。
純文学というのは正解がありません。
どう書いても、読み終わったあとに感情が分からなくなればそれは純文学なのだと思います。
まとめ
最後の「書き手の視点から考えた定義」は、読み手からの視点とも言えるかもしれません。
読み手も、純文学を読んで「この気持ちはなんなのだろう」と思う人もいるでしょう。
そうです、純文学というものを説明しようとすると、こうなってしまうんです。意味が分からなくなるんです。定義って難しい。
これからも僕は純文学を分からないまま、純文学を書いていくのだと思います。ああ、それはなんともおかしな話。だから面白い。