シェア
櫟本分署跡保存会
2022年6月16日 14:38
第3章 教祖の道と応法の道つとめ場所吉田神祇管領からの許可証が届いた頃のお屋敷は、正面入り口の小さな門屋は昔のままであったが、母屋は取り払われ、その跡には大きな石がごろごろしている、といった有様でした【母屋を取りこぼった折に、門屋は取り除かれ、冠木門になっていた。(櫟762)】。その奥に隠居とよばれた建物があり、そこは以前、こかん夫婦が住んでいた所です。ところが、母屋が取り払われると、秀司はこ
2022年6月16日 14:43
針ヶ別所事件(初めての異端)慶応元年には、教祖の話を聞いていた針ヶ別所にある今井家の二男で通称、助造といわれた正次郎が、教祖の教えを歪めて説くということがありました。いわゆる、助造事件であります。教祖は、神の社になって生きる生き甲斐という、いままでにない信仰を正しく伝えようとしておられました。それまでも、転輪王は一人も余さずたすけたい思いであるという教えはありましたが、元初めた神でもあると
2022年6月16日 14:46
大和神社事件初代真柱の『稿本教祖様御伝』(明治31年)には、次の様な記述があります。『稿本教祖伝』には、棟上げの翌日に山中忠七が招待して大和神社の事件が起こった、と書いてあります。明治40年以前、つまり、本席が生存中に書き残された資料、あるいは話されていたことには、棟上げの翌日に大和神社の事件が起こった、とは何処にも書いてありません。完成した後に起こった、と書いてあるのです。また、記述
2022年6月30日 22:46
みかぐらうた慶応2年の出来事として最も重要なことは、それまでのおつとめが「なむてんりんおうのみこと」と唱えるだけであったものを、「あしきはらいたすけたまえてんりんおうのみこと」と唱える転輪王のつとめに変えられたことです。これは、悪しき心遣いを払い、酷い心から優しい心になるということがたすけだから、世界一列たすけたいという転輪王の神名を呼び、手で招き、しっかり心に治めてそれに基づいて生きます、と
2022年6月30日 22:47
天輪王明神つとめ場所を教育の場として、人々はみかぐらうたを歌い、てをどりが心勇んで陽気に行なわれていました。しかし、お屋敷の雰囲気の中には、どこか翳がありました。それは、つとめ場所普請の功労者である飯降伊蔵が、先の大和神社の一件以来、夜にしかお参りに来ないということでした。そんな中で、 慶応3年7月23日付けで、秀司が改めて吉田神祇管領から祈祷の許可を得ています。それに先立って、慶応3
2022年6月30日 22:48
信仰の目標教祖のたすけ一条の象徴・目標は、後にかんろだいという形になっていきます。しかし、かんろだいという言葉がおつとめの言葉として出て来るのは明治8年になってからです。しかし、かんろだいの意味する、女五分男五分、五分五分のたすけ合いによって永遠の命を得る、という基本理念は、同じ意味である扇の伺いという形ですでに表われています。 みかぐらうた六下り目に、「あふぎのうかゞ ひこれふしぎ」とありま
2022年6月30日 22:49
明治維新慶応3年から明治にかけて、『稿本教祖伝』には、とあります。この記述の元を辿ると、諸井政一が伝えた言葉のようです。この人は、山名大教会を興こした諸井国三郎の息子で、教祖が現身を隠された直後に12歳でお屋敷に行き、本席の当番などを勤めながら、27歳で亡くなりました。その間に、いろいろな話を書き留めた『正文遺韻』は最も正確に当時の様子を伝えている、と言われています。確かに、諸