~第97回~「富くじの話」
大宮の町は武蔵一宮氷川神社の門前町としてはじまり、江戸時代には中山道の宿場町として栄えた歴史があります。
江戸時代の文書を見ると、氷川神社の当時の様子を伝えてくれます。
例えば「西角井家文書」。
神主職を世襲してきた同家が所有している書物群のことですが、その数は1万点ほどもあり、多くは氷川神社の歴史や信仰に関する資料です。
例えば、享保20年(1735)の「一宮大祭五節句諸色勘定帳」や、天保5年(1834)の「氷川神社年中行事書上」や「年中記録」といった祭礼に関するものや、明和元年(1764)の「富突興行願書(屋根替ニ付戸十ヵ年間富興行御免願)」という行事関係の文書があります。
「富突」とは「富くじ」ともいい、現代で言えば宝くじのこと。
番号などを記した富札を発行し、箱に同様の番号を記した木札を入れ、先端に針の付いた錐のような棒状のもので箱穴から突き上げるという独特の抽選方法をとっていました。
なぜ、神社が富くじをしているのかと言うと、これには江戸幕府と氷川神社の関係の説明が必要です。
江戸時代当初は有力寺社の造営修復については幕府が行っていたのですが、財政が厳しくなった享保年間(1716~1736)に幕府による修復は廃止され、神社独自で予算を捻出しなくてはならなくなりました。
寺社側はその費用捻出のために幕府に富突興行の許可を願い出て、その利益を社殿の修復費用に充てたのです。
氷川神社の富突興行は先に記載した明和元年のものが、確認できる最初の記録です。
その後、文化文政年間(1804~1830)には頻繁に富くじが行われていたことが文書から伺えます。
富突興行は天保13年(1842)には禁止されましたので、江戸時代ならではの行事でした。
文書資料は普段あまり目にする機会はありませんが、これら文書は神社や郷土の歴史・文化を今に伝えてくれる、未来に継承すべき文化財です。
〔 Word : Keiko Yamasaki Photo : Hiroyuki Kudoh 〕