藍から白む⑦ 創作大賞2024応募作品

サラ episode3


目の前にある白い物体が便器だと気付くまでに、数分かかった。
ここが家ではないこと、どこだか知らないトイレの個室にいるという事実を認識するまでに、さらに数分の時間を要した。

胎児のように丸まって寝ていた体を起こそうとすると、バールで頭を殴られたような気がした。
歯をギリギリとさせながら頭を押さえると、指の隙間から側頭部にアイスピックを突き刺され、噴水のように血が吹き出す。
傷口からウジが次々と侵入し、寄生虫が湧き、脳髄を食い荒している。
眼球の裏側まで到達したウジ達がブチュブチュと潰れ、目玉から黄色い膿汁が染み出していく。


耐え難い痛みに発作を起こしそうになり、その場に吐いてしまった。
第二波はすぐにそこまで迫り、洋式便座に手をかける。

昨晩、ダイニングバーで食べたハーブの効いた自家製ウィンナー。
フォークで刺した時のブチ、という感覚。
あれは絶品だった。
あそこのビールも、また飲みたい。
今度は3人で行きたい。
あの店長を見て、アイミはどんな反応をするだろうか。

吐瀉物を便器内に撒き散らして大きく二呼吸すると、舌の奥を3本指で強く押す。
固形物はもう出ず、水分だけがビシャビシャビシャと、落ちていった。

涙が出ていた。
手も、顔も、何故か髪も、脚も、服も、全てが濡れていた。


洗面台で手を洗い、口をゆすぐ。
血走った目とドロドロに溶けたメイク、青白い肌、皮のむけた唇にまだらに残るマットリップ、老婆のような髪。
鏡は、人間ではない何かを映している。

喉が渇いて仕方が無い。
バッグには飲み物が無く、洗面台から流れる水を何度も手ですくって飲む。

服の裾で口を拭うと少し冷静になり、再度バッグの中身をかき回す。
タバコ、財布、化粧ポーチ、キーケース、財布、香水、ぐしゃぐしゃのレシートと紙ナプキン、ゴミ、充電が切れたスマホ。
我に返り、急いで財布の中身を確認すると、万札が無くなってないことにホッと胸を撫で下ろした。


トイレを出た廊下は薄暗く、静かで、突き当りの蛍光灯がチカチカしている。
昔仲間で行った廃墟を思い出し、寒気がした。
エレベーターのボタンを連打し、後ろを振り返らずに走り、ビルの入口であろう自動ドアに手を伸ばす。


カラス達が一斉に飛びたったかと思うと、けたたましい鳴き声が反響し続ける。
散乱する生ゴミと、白いフンまみれの道路に横たわる死体、に擬態したであろう酔っ払い。
どこからか流れてくる、本気を出せばあたしでも作れそうな、単調なボカロのj-pop。


突如現れた平和な世界に、膝から崩れ落ちそうになる。
見覚えのあるその景色は、昨日行ったクラブの裏の通りだった。
通りすがりの人が、死体とあたしを凝視し、すぐに目を逸らしていく。


太陽が眩しくて、立ち眩みがした。
雲一つない空に、死にたくなる。
最高の海日和だ。
このまま海に行きたい。
高速を飛ばして、湘南にでも。



「はあ11時!?やべーな!ちょっとしか寝れねえじゃん〜〜〜くそ〜〜〜あああああーー頭痛え〜〜〜〜死にてえ〜〜〜〜海行きてえ〜〜〜〜。ああ!!仕事辞めてえ!!!」


タクシーの運転手はあたしを乗せたことを後悔しているだろう。
独り言がうるさい、さっき強姦されてきたような汚いギャルを、怪訝な表情でバックミラーからチラチラと伺っている。
ミラー越しに目が合い、にっこりと微笑んでやると、運転手は焦ったように前に向き直した。
青すぎる空に視線を移し、微笑んだまま舌打ちをする。


今すぐにこの世界が終わりますように。


ポジティブなその願いは、あたしの口角をさらに吊り上げる。
急激に変化していくメーターにも、煩わしいクラクションにも、苛つかなかった。

VIPルームで男に馬乗りになるモモ。
ゲームをしながら仲間とテキーラを煽り、奇声をあげ、踊った。
あれは多分、朝の4時頃だった。




「サラたん、震えてる」

一番付き合いの長い常連客の中川が、煙草を挟んでいるあたしの指を見つめる。

「ああ、これ最近ずっと。昨日昼から飲んでてー、ここの女の子と。夜解散して、クラブ行って、仲間と飲んで、気付いたら知らないビルのトイレで寝てた。気付いたら昼」

眉を歪ませて苦笑しながら、氷を入れたグラスをマドラーでグルグルとかき混ぜる。
中川があたし用に入れてくれた麦焼酎のボトルをグラスに5割注ぎ、残りの5割を水で満たしていく。

「体壊すよ?そんな飲み方してたら。まだ若いのに。アル中真っしぐらじゃないですか」
「だよねー。まあしゃーない。後悔ないもん、早死にしたって。30歳まで生きなくて良いな」

吉四六水割りハーフは、濃かった。
こみあげる胃液を押す戻す為に、さらにもう一口煽った。


「ありがとうございまーす!クリスタル大好きー!」


斜め向いの団体の席で、シャンパンを片手にアイミが叫んでいる。
珍しく顔が真っ赤だ。
締め日前だから、頑張って飲んでいるんだろうか。

「サラたんもシャンパンとか飲みたい?」

中川の言葉に、フーッと煙草の煙を吐き出した。

「いやいいよ。さっきボトル入れたばっかじゃん。中ちゃん飲みたいなら飲むけど」
「サラたんて本当キャバ嬢ぽくないよね」
「それなー。もっとブリっ子して甘えれば売れるんだろうけど」
「想像したら気持ち悪い」
「目突いて良い?」

アイストングを持ち、抵抗する中川の手を押さえ、2人で揺れて、笑った。

SEをしているという中川は40代中盤で、オタクだ。
なんで彼はあたしを指名しているんだろうと、いつも思う。


可愛くて元気で甘え上手。
どの層にも刺さるビジュアルで、万人受けという言葉を具現化したようなアイミ。

どんな話題にもついていける、聞き上手で落ち着いた接客。
50代以降の質の良い金持ちを根こそぎかっさらっていく、綺麗系のリマ姉。


あたしはただの派手なギャルだ。
話すのも得意じゃないし、笑うのは下手だし、嘘は付けないし、おねだりとかできないし、駆け引きは面倒臭いし、というかそもそもできるわけがないし、頭が悪いし、政治とか税金の話とか意味がわからないし、みんなずっとうんこの話とかしてて欲しいし、酒が強い以外に取り柄が無い。

水商売にも、他のどんな仕事にも、というか生きる事自体が、向いていない。
何の価値も無いあたしは、今日も酒を飲み、酔い、つまらなくて死にそうな日常をどうにかこうにかギリギリで乗り切っている。


高級店にそぐわない、ホワイトのハイライトが効いたバレイヤージュヘア。
海外かぶれのダンサーのような濃すぎるメイク。
入店面接を担当した店長には「詐欺師!」と言われ、客にもマネージャーにも副社長にも文句をつけられるあたしのビジュアル。
半年に一度飲みにくるここのグループの会長だけは、「別に良いんじゃない。変わり種がいた方が面白いでしょ」と、興味無さそうに笑っていた。


あたしは自分を変えない。
誰かのウケを狙って自分を変えたら、もうそれはあたしではない。
そうなってしまうくらいなら、死んだほうがマシだ。
あたしはあたしに異常に固執し、高すぎるプライドを捨てられずにいるダサい人間だ。
あたしには何の価値も無いのに。



no.2 水野愛未 320万
no.8大城璃真 117万


更衣室の売り上げ表を眺めながら、煙草に火をつける。
レギュラー出勤で店の看板のアイミはもう生きている次元が違うし、週2程度の出勤でも安定した売り上げを保つリマ姉。
この表を見るたび、自分に何の価値も無いことを再認識する。
毎月少しずつあたしは摩耗し、ゆっくりと殺されていく。



「さあぁちゃぁああん〜〜〜♡酔ったにゃ〜〜〜〜〜♡おちゅかれだにゃ〜〜〜〜ん」


後ろから抱き着かれ、アイミのバニラ系の香水が鼻孔を刺激した。


「アイ今日飲んでたねー。シャンパン祭りやったな」
「おまちゅりーーーー!頑張ったよおお!よしよししてえ〜〜〜」
「はいはい頑張った!偉いぞ!よくやった!お手!」


シーズー、ヨーキー………?いや、ポメそっくりだ。マルチーズにも似ている。
アイミは犬だ。
アイミは可愛い。
こんな風に誰にでも甘えられたら、少しは人生が楽しくなるのかもしれない、と思う。


「りーしゃあああん!!」


あたしの腰に腕を回していたアイミがパッと離れ、駆け出す。
一瞬で軽くなりすぎた自分の体によろめく。


「アイミ顔真っ赤!大丈夫?笑 いや疲れたー。めちゃくちゃ混んでたねー!」
「も〜〜〜無理ーーー!!りーしゃん送りぃ?飲みに行こ〜」
「アフター無いの?行こ行こ♪サラも行けるでしょ?」
「もち!あたしカラオケしたいんだが」
「おー良いね!ご飯も食べれるとこ行かない?ファム行く?」


個室があるし出前もできるそのバーは、仕事終わりのあたし達の行きつけだ。
店員もノリが良くて面白いし、輩も若すぎる子もいない。

煙草に火をつけ、出前何頼もっ、と言いかけたところで、ピンクの派手なスマホが視界の片隅に映る。
宙を舞う、幻覚かと思われたそれは、ドン!パタ、と小さな音をたてて、灰皿の横に落ちた。

「うわあああっぶな!びっっっくりしたー!何!?」


キレ気味で左後ろを振り返ると、膝を抱えたアイミが床にしゃがみこんでいた。

口が半開きのままアイミを指差し、デニムを履くリマ姉に【泣いてる?】のジェスチャーをする。

「アイ大丈夫?ちょっとあたし水持ってくるわ」
「アイのスマホ、見て、画面」


震える声にただならぬ雰囲気を感じ、ピンクのスマホを手に取り裏返す。


映し出された画面にはマンションのベランダ。と、手すりに片肘を乗せ、煙草を吸う、あたし。
これは、あたし?だ。
これはなんだ。
いつだ?どこだ?

「何これ、あたし?」

サンダルを履ききっていないリマ姉がヨタヨタとあたしに近付き、肩から画面を除く。


「…………アイミの家じゃないこれ?え、何これ。こないだの時じゃない?3人で飲んだ時。何この写真」


一瞬で状況を理解したであろうリマ姉の眉間に、皺が寄っていく。


「…………知らない番号から送られてきた。さっき。何枚も。」


蚊の鳴くような声を出したアイミは、膝を抱えたまま、動かない。


「は!?きも!え、ストーカー?」
「待って、この角度おかしくない?高層階なのになんで?これさあ………、どっか遠くの建物から望遠レンズ使って撮ってる?」

リマ姉と顔を見合わせ、ゆっくりとお互いの手を組む。


「怖すぎだろ!やばくね?警察行く?」
「これ店長にも言っといた方良くない?あー………言わない方が良いのかな。警察…。この時間やってる?アイ!とりあえず、今日帰りアイミんちの玄関まで送るから!」
「あたしも行く!人数いたほうが良い!」
「てか、家帰らない方良いかもだよね…。え、ガチストーカー?……………アイミ!しばらくうち泊まりな!」


リマ姉と捲し立てながら、震えているアイミの横にしゃがみ、背中をさする。


「…………………っ。…………ありがとう。………………とりあえず…………………ご飯食べる………………」


やっとの思いで絞り出された小さな声に、吹き出してしまう。


「そうだ!飯食お!とりあえず飯だ!腹減ったら何もできん!ファム行くよ!ほらおんぶしてあげるから!」
「うん!まず食べて元気出そ!作戦会議!」


ゆっくりと顔を上げたアイミの目は赤く、涙袋が腫れている。
力が抜けているその体を起こし、幼児の着替えを手伝うように、リマ姉と協力してワンピースに着替えさせていく。



ピンとして!ピンと!ふにゃふにゃすな!タコかよ!ねえ、ちょっ、わざとでしょ!ふざけたでしょ今!ちーがーうって腕通すのこっち!ねえ、あたしら千手観音すぎん?なんの時間これ?



3人でワチャワチャ暴れて、リマ姉は若干キレてて、何故か全員汗ダクだった。
よくわからない状況にツボって笑い出すと、2人もつられて笑った。
3人で爆笑しているこの状況を、もう1人のあたしが後ろから俯瞰で眺めている。



あたしにはそれなりに遊ぶ仲間もいるし、知り合いも多い。
でも、女友達はいない。
あたしは女が嫌いだ。
物心ついた時から、ずっとずっと女が嫌いだった。

すぐに泣く女が嫌いだった。
群れずにいられない女が嫌いだった。
口が軽い女が嫌いだった。
陰湿な女が嫌いだった。
噂話と悪口と男のことしか話題がない女が嫌いだった。
親友の関係性を求めたがる女が気持ち悪かった。
男が絡むと途端に終わってしまうような、バーコードのハゲ頭より薄い、空気よりも軽い女の友情。

休み時間の移動教室、金魚の糞で溢れるトイレ、机をくっつけて食べる給食、どうでも良いくだらなすぎる会話、嘘つき達の笑い声。
つまらなさを煮詰めた日常は、絶妙な力加減で首を絞められ続けているようだった。
煮詰めきったドロドロの汚物を喉奥に突っ込まれ、窒息してしまいそうだった。
一億積まれたって、もう二度と中学時代には戻りたくない。


あたしは今、アイミの細くて小さな体を、リマ姉と支えている。
あれほど嫌っていた女と協力し、女を支え、女を元気づけようと、訳のわからない言葉を発している。
店からファムまでの道は、混み合っていた。
すれ違う気持ち悪いオヤジ達が、あたし達を指差し、笑う。
オヤジ達に罵声を浴びせ、ふざけて寄っかかってくるアイミを押し戻し、3人で大笑いながらフラフラと歩いた。



何故だか、満たされていた。
自分に少しだけ、価値が生まれたような気がした。
あたしは多分、今、すごく救われているのかもしれない。


あたしの肩にもたれたアイミの髪から、バニラの香りがする。



「これを1滴入れるだけで、全然違うんだよ」

ホットケーキのタネにバニラエッセンスを垂らし、シャカシャカとボウルをかき混ぜる。
幼いあたしは、早く早くと、正座した足を上下に揺らしている。
微笑んでいたであろうその母の顔を、もう今では何一つも思い出せなかった。

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