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ゲルハルト・リヒター展の「ビルケナウ」について/一日一微発見315

「皮肉」というコトバは、なぜ「皮」と「肉」なのか。

禅の達磨大師のコトバから来たらしいが、それでも皮・表面と肉・内側(しかし「骨」や「髄」ではなく「肉」なのだが)をもって、「嫌味」を表現するのは、なんとも不思議がつきまとう。
しかし、リヒターが作り出した画業や絵画について思う時に、いつも「皮」、「肉」そして「皮肉」という単語を思い出すのである。

東京国立近代美術館のゲルハルト・リヒター展は壮観であった。僕はリヒターの絵画が好きでも嫌いでもないが面白いものだなとずっと思って観続けてきた。何年か前にバーゼルの現代美術奥の院であるバイエラーファウンデーションでは、心底圧倒された。

好きでも嫌いでもない、というのは悪い意味ではなくて、「アートは皮肉なもの、人間は皮肉なもの」ということからリヒターが、その60年を越す画業の中で一度たりとも、離れたことがないことの凄さに圧倒されるからだ。

間違えてはならないが、彼は伝統を背負った絵画界の巨匠ではない。その年齢や風貌から騙されてはならない。
彼は東西冷戦の最中に、ポップアートや資本主義リアリズムから始まった、我らと同じくデラシネなのだ。

そんなアーティストの作品を簡単に、好き嫌いで言えるはずがない。

彼ほど、「皮」と「肉」が作る矛盾に、まっとうに取り組んできた者はいないだろう。

東京国立近代美術の「ビルケナウ」の展示室にはたくさんの観客がいて、その観客たちはなんのためかはわからないが(SNS以外なら何なのか)、ビルケナウの写真を撮りまくっていた。

写真作品もその作品を写真化したものも、そしてそれらの部屋がうつりこんだグレイの巨大な鏡をも(そしてうっかり、収容所の中庭で死体を焼く写真を撮ってしまい警備員に静止される観客のなんと多いこと)。

それらの全てがリヒターの作品の「皮肉」性をよく示していると思い面白かった。

しかし、SNSで拡散したからと言って、果たしてこの会場のどれぐらいの人がリヒターに「近づくこと」ができているのだろうか?

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