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フィリップ・パレーノの「パラレルリアリティ」の世界へようこそ/一日一微発見485

割引あり

「私」が「私」でありつつ、「私ではないもの」としてある。「ここ」が「ここ」であると同時に「ここでない場所」である。「今」が「今」であり、そして「今でない時」となる。
つまりは、「A」であり、かつ「非A」。

ガラスごしに秋の景色が見える美術館の部屋で僕らは、ヘリウムで宙に浮くオモチャっぽい魚を追う。それは自分をこどもっぽい無垢にもどすプレイ(あそび)となる。

そしてその部屋を出て、次の部屋に入ると暗闇があり、人々が席についてスクリーンをみている。スクリーンの横には、奏者はいないのにピアノが「自動」で曲を奏でている。傍には、根雪が配置される。

宙を漂う魚のしかけがわかっていても、魚を追って我をわすれて奇妙な気分になるのと同じように、コンピュータ制御されているピアノの鍵盤を見ていると、頭で了解しているモノやコトが謎めいたものに変わる。

そう、キューブリックの「宇宙の旅」が、最遠方への旅であるにもかかわらず別の部屋へのワープとなるように、僕らはパレーノが設定する「場所(places)」と「空間(spaces)」に連れていかれる。そして自分がいま・ここにいることの自明、存在の自明のコーティングを剥奪されるのだ。

スクリーンには、ウォルドルフ=アストリアホテルのレターヘッドに文字を書きつらねるマリリン・モンローの万年筆が映し出されている。そしてホテルの窓には止まることなく激しい雨が降り注ぐ。ペンは動き続けるがモンローは姿を見せない。不在なのだ。

「まるで映画のシーンのようだ」というコトバが脳裏をよぎるが、いや、何を言ってるんだ、まさに映画のシーンじゃないか、と我に帰る。
スクリーンからの文字が綴られる「向こう」の音も、上映室の「こちら」のピアノの音もとぎれない。

2つのものは、出どころの世界がちがうのに、いま・ここにいる私の脳の中で1つになる。
映画の「目」は、ホテルの部屋をなめるように見つめるが、いったいこの目の主は誰なのだろうか?
それは私であり、非私。Aであり非Aである者。

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