見出し画像

植物がコンテンポラリーアートに教えること(コッチャ/ニューエコロジー)/一日一微発見316

この数年、にわかに「アントロポセン(人新世)」という言葉が、時代のキーワードのように使われだして、それはビジネス書やアートブックにいたるまで広がっている。

還元主義的な科学をベースにした、産業革命以降の人間の動きがついに地球全体にまで及び、資源や気象、食料に大きな危機を与え回復不可能な状況を生み出した。

東西冷戦を生み出したイデオロギー的対立、生産様式、生活や仕事、いや人間の営みの思考そのものにシフトを迫る事態を迎えているということだ。

もちろん、トランピストたちのようにそんなことは騒ぐことではない、と一蹴するヤツらもいるが、一方では時代のセンサーであるアーティストたち(ソーシャル・プラクティスの活動家たちも)は、いち早くこの問題を作品に取りあげはじめた。

それは環境や共生という視点もあるが、根本的には「脱人間中心主義」という言葉に集約されるだろう。

アントロポセンの危機意識は、その流れと相まって、「テレストリアル」(ラトゥール)や「マルチスピーシーズ」(ダナ・ハラウェイ)や「物」(ティモシー・モートン)、そして「植物」(エマヌエール・コッチャ)へと思想をシフトさせている。

人類絶滅、加速主義などのようなヒステリックなものから、かつてドゥルーズはリゾームという「根茎」を脱主体のモデルとして提出したが、2009年にはそれをモダンへとゆりもどす形でキュレーターのニコラ・ブリオーは「ラディカント」という「ツタがつるを伸ばしていく」、ノマディックで翻訳的な変成に着目したモデルを提出した。

しかし、これは漸時的なモデルとしては聞こえはいいがとってつけたようなところがある。
なぜならやっぱりブリオーは人間の「関係性」の人であり、地球文明の主人を人間以外に明け渡そうという視点に乏しいからだ。

その点はアーティストの方が先を行っている。

ここから先は

1,730字

¥ 150

応援よろしくね~