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ホックニーのアートは、「画像生成」の視点で理解する必要がある/一日一微発見395

割引あり

自戒をふくめて言うならば、美術にまつわる言説は、往々にして、アートのなんたるかにたどりつくために「害」を与えてきてしまった。

とりわけ、この100年間(デュシャンがレディメイドに気がついて以来)におこったこと、つまり、視覚プレイから頭脳プレイへとアートの価値生成のルールがシフトしたことをめぐる言説の多くは、我々のアートへのアプローチをつまらないものにしてきたのではないか。

モノに触れ、交わることなしに、言説だけがいい気になって一人芝居をしているようなものだ。他人がそんなコトバをいい気になってふりまわしているのに出くわすたびに、我が身を振り返り、自戒の念にかられるのである。

こんなことを書き始めるのは、デイビッド・ホックニーの日本での27年ぶりの展覧会に行っていろんなことを考えたからだ。
ちょうど同時期にマティス展をやっていることもあり(同時に大規模なアブストラクトペインティング展をアーティゾンでやっていたのも記録しておこう)、絵画の快楽のような視点でひとくくりにして、ホックニーの作品を見てしまい、誰もが感想を書きがちだと思うからである。

しかし結論を先回りして言うならば、ホックニーは手強く、「やさしいアート」では全くない。彼は単に西洋絵画史に精通している画家ではなくて、美術史や批評家が書いてきた歴史や理論がいかにまちがっているかを、実作をもって逆襲しているアーティストなのである。

いわばホックニーという存在は、「コンテンポラリーアート」における一つの「踏み絵」であり、彼が提起していることを仮に「ホックニー問題」としておきたいぐらいだ。

ではその「問題」とは何かというと、彼はペインティングだけを問題にしているのではなく人類が生み出し続けている「画像」をこそを思考し続けているということなのだ。

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