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喪が明けた 坂本龍一「音を視る、時を聴く」/一日一微発見487
2024年の「一日一微発見」を、このテキストで〆ることができるのは嬉しい気持ちだ。
先日、東京都現代美術館での、坂本龍一展「音を視る、時を聴く」の内覧会に行った。
午后3時から開幕式があるというので早めに行ったが、もう結構人が集まっていた。 高谷史郎君やカールステン・ニコライなど8人のコラボレーターとの展覧会であることは事前に知っていたが、内味はまるで知らない。
けっこうドキドキしながら会場にやってきた。開幕式の会場に行って、高いところで座っていると、来る人の顔がよく見える。
僕は坂本さんとはずいぶん仕事やインタビューなどごいっしょさせていただいた。『skmt』という、まあ、ふつうなら作れない本も作らせてもらった。だから、坂本さんが亡くなったあと、追悼文や原稿依頼されたが、何を言ってよいかまるでわからず断わり続けてきた。僕の人生の中でも坂本さんは極めて大きい。大きすぎる。
しかも、僕が坂本さんと密接だったのは、80年代の終わりから2010年頃までで、坂本さんが病気になってからの晩年は全くといってよいほど接触がなかった。遺作である『12』の音(音楽)へのアプローチもどう聴いてよいかと正直迷っていた。それもあって、個人的に今回の展覧会はドキドキしていた。
開幕式の観客席にぽつんと1人ですわっていて下を見ると、旧友の澤文也君が奥さんと2人で登ってきて「隣いい?」と微笑みながらやってきて座った。澤君は90年代にはまだロンドンにすんでいたし、彼とは坂本さんがブラジルのジョビンの家でレコーディングする時にも写真家の米田知子と3人で旅した大切な仲問である。
彼とも「逢う」のは数年かぶり。でもいろんな縁もあって、たがいの動向はなんとなく知っているから、久しぶりに逢っても、ついこのあいだ逢ったばかりのような気がする。民芸運動の小林多津衛の話とか雑談でもりあがっていたら開幕式がはじまった。
壇上には、主催者やコラボアーテイストの高谷君やカールステン、中谷不二子さん、ゲストキュレーターの難波さんらがおられて挨拶された。
そのあと内覧会がはじまり、僕らは展示室に向かった。会場は壁を高くし、会場をできるだけ黒くして、雑念がまるで無い、超ミニマルな設定であった。
まさに「音を視る」「時を聴く」ことに集中できるような室礼だった。
高谷君との「TIME TIME」では田中泯による「夢十夜」が流れていた。そのあとも2013年に表参道で見た「water state」(石は別のものにかわっていたが)や「IS YOUR TIME」の展示が続いた。時と音を装置化し、交換し続ける作品が続いて気持ちが調律された。
そしてそのあとにカールステン・ニコライが作った「新作」に出逢うことになる。それは、「PHOSPHENES」と「ENDOEXO」という2つの作品だった。
暗闇にすわって画面を見る(今、書いていて思ったのだが闇という文は門の中に音と書くのだな)。
なんの予備知識な「PHOSPHENES」を見始めたのだが、これは坂本さんの最後のアルバム『12』の音楽とのコラボであることがすぐわかる。
画面には煙の流れのようなものが音と同期したり、非同期で流れる。モノクロの美しい作品だった。別にドラマもなく、単々と音と画像が生成され消えていく。
それが終わると「ENDO EXPO」がはじまる。これは一転して動物の剥製が大量にストックされている場所で、くっきりとしたカラーの作品だった。動物の眼や角、皮膚の表面をなどが
うつし出される。
この2つの作品は2024年の新作だから、生前の坂本さんがこの作品にどれぐらいコミットしていたのかは分からなかった。
しかし、僕はその2つの作品を体験していて、初めて『12』の音(音楽)の世界に入っていける気がしたのだ。
『12』の音(音楽)は、日々坂本さんがつくったもので、タイトルも何もなく日付だけがある。完成や未完、表現として成立させることとそれを拒否すること、いや音と音楽の境も意図的に曖昧なものもある。闘病の中で創作の労力はギリギリだが枯淡というわけではない。
それはきわめて単純にして複雑な音の産物なのだ。だがカールステンがコラボしたことにより、その音(音楽)たちは、初めて接地しているように思えた。鳥は宙の産物ではなく、地や森があってこそ自由なのだということに似ていると思った。
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