祈る町たち 〜休学カブ旅8日目 一関・登米・気仙沼~
はじめに
お世話になっております。いちきたこと申します。いつもどおりおくれてます。分量が多すぎて手に負えませんので、これからはなるべくその日、その場その場で記録をつけるようにします。
さて、今回は宮城の県北を回ります。戦乱の中に生きた藤原清衡と津波に襲われた三陸の人々。どこか通底するものがあるように感じます。
以下日記本文
8/28
朝5時前に起きる。早寝早起きが身に染み付いてきた。朝の支度をしていると、タンクトップのお腹の出たおじさんが話しかけてきた。車中泊で駐車場を使っていたらしい。聞くと、九州から出てきて2年前に北海道を1周し、今は東北を周遊中だそうだ。色々な人がいる。
さて、そろそろ出発。今日は隈研吾の森舞台を見たかったのだが、移動時間を差し引いても開館まではかなり時間がある。どうしようか...と悩んでいたら、少し離れてはいるが1時間ちょっとの場所に中尊寺があるのを見つけた。行程を組む時になくなくルートから外してしまっていたが、これなら行けそうだと思い走り出す。
途中の山道でトラックの群れに遭遇した。同じ工事現場の車両なのだろう。ずっと前の方で次々とトラックが右折して一本道に入っていくのが見えた。朝だからということもあるが、東北の山道は基本的に車が居ない。バイク初心者としては嬉しい限りなのだが、代わりに脇からねこが飛び出してきた。思えば動物注意の看板をよく見かけるようになったな。鹿やイノシシが出てこないよう祈っておこう。
今日は朝からジメジメとしていたが、途中からは空気がどんどん重さをまして、最後10kmほどはずっと小雨にふられていた。バイクはやはり雨に弱い。ヘルメットに着いた水滴が視界を曇らせるし、タイヤのグリップが効かなくなってコケる可能性もある。山道は尚更だ。走ると相対的に体に受ける雨も強まるので、荷物も気をつけないと濡れてしまう。台風は南で停滞している様で、9/3まで東北にいる予定なのだがずっと雨マークがついている。夏の太陽をここまで待ち望んだことは無い。
そんなことを思いながら、中尊寺に到着。坂の上のパーキングに向かうと受付のお兄さんが「下の駐車場だと50円ですよ」と教えてくれたのでお礼を言ってそちらに停めた。レインコートは上はともかく下を脱ぎ着するのがとても面倒だ。寒ければずっと着ていればいいのだけど、この湿度と暑さでそれは紛れもない自殺行為だ。
空は曇天、時々小雨が降る。雨が降っていない間は霧と雨の中間のような細かい水滴が宙に舞っていて、歩くだけで顔が濡れる。中尊寺は山の上にあり、数えるのが億劫になるくらいたくさんの寺社仏閣が集まって一帯を形成している。本当に全ての寺社をじっくり見ようとすれば、一日では到底足りないような場所だ。
基本的には中尊寺も含め無料で入れるが、金色堂だけは拝観料1000円が必要だった。ちなみにこれがあれば金色堂宝物殿(ギャラリー)も見ることが出来るので、高いとは思わなかった。
宝物殿内部はほぼ撮影禁止だったのだが、入って少し進んだ場所にある千手観音像が最も記憶に残っている。後光が差し、沢山の救いの手を差し伸べこちらを見下ろすそれはまるでキリストのようだと思った。人に救いを与える存在、万能性や神性というのは場所や時間に関わらず同様のイメージを持つのだろうか。
それから「紺紙着色金光明最勝王経 金字宝塔曼荼羅図」というものも凄かった。9重の屋根が何かドットのようなもので描かれているのだが、よく見るとそのドット一つ一つが文字になっている。お経を塔の形になるように写経したものらしい。どんな根性してんだろう。ぜひ実物を見てほしいが、見るだけで疲れるくらいに細かい。(気づくまでただの塔の絵だと思ってた)
宝物殿を見終わって金色堂を拝観したのだが、高まる期待とは裏腹に少しガッカリしてしまった。
金色堂との間にガラスがあるのはしょうがないにしても、細部まで見えるようライトアップしたり、大音量で金色堂の各部位の詳細を説明するアナウンスを流し続けたりする必要は無かったんじゃないだろうか。金色堂の細かい説明は宝物殿の展示を通してしっかり理解出来るようになっていた。音のせいで集中もすることも何かを念じることもできない。あとは見せるだけでいいのになあ... と、そんなことを思ってしまった。御堂というよりは博物館の展示のようだ。全人類の平穏を願って中尊寺を建立した清衡の思いが剥製にされているようだと思った。もしかすると、そもそもそっちを目指しているのかもしれない。
金色堂を出て他の場所を巡ってみる。沢山のお堂のほかには、神社に付随する野ざらしの能楽堂なんかもあった。うえを見上げると、屋根はもりもりの茅葺きだ。曲線が美しい。50年後、この茅葺きを守れる職人さんはどれほど居るんだろうか。これだけ大きな屋根を載せているのに舞台として使えるように壁を全てとっぱらってしまえる柱梁構造はやっぱりすごい。
一通り見て回って、中尊寺をあとにする。天気はずっと霧雨だったけれど、生い茂る草木の葉の一枚一枚が水を含み、エネルギーに満ち溢れていた。この森があってこそ、ここは東北の信仰の中心地となりえたのだろうと思う。
さて、次向かうのは隈研吾の初期作、伝統芸能伝承館 森舞台だ。クライアントの予算が少ないことを逆手に能の舞台をそのまま野外に作ってしまったのだとか。元来、能は野外でやるものだったらしく、歴史的な文脈も引き継いでいる。(実際、中尊寺で見た能楽堂も野ざらしだった)
住宅地のかど、鬱蒼としげる森の手前に隈研吾おなじみの細い木のルーバーがみえてくる。バイクを止めて建物に近づくと、掃除をしていた受付けの女性が声をかけてくれた。入場料200円を払い、建物の説明を軽く受けいざ階段をあがる。
内部は結構あっさりだ。能の舞台があり、正面には客席とそれに繋がるガラス張りの休憩室がある。ガラスの引き戸は全面解放して客席と一帯にできるようだ。それから舞台の下手側にも客席があり、こちらは砂利敷になっている。
普通の建物だと思ってしまったが、つまりは古びていない証拠でもある。日本建築のディテールをかなり直接的に現代建築に引き込んだのが隈研吾の功績なのかもしれない。
歩き回っていると、ぶぶぶぶ、と虫の羽音が聞こえてきてびっくりする。あたりを見回すと、ガラスの引き戸のレールにクマバチが挟まって動けなくなっていた。あるいは、何かの拍子に飛ぶ力を失ってしまったのかもしれない。メスしか刺さないとは言うが、刺されるのが怖くてそのまま放っておいてしまった。
建物を出て、ご飯屋さんを探す。全く知らなかったのだが、油麩丼というのがこのあたりの名物だそうだ。良さそうなお店にピンを立てて走り出した。
駐車場がなくて困っていたら、お母さんにガレージのような駐車場に誘導してもらった。ガラガラと引き戸をあけて、靴を脱ぎ暖簾をくぐる。中はあまり広くなく畳敷きで、メニューやカレンダーなんかの他に芸能人のサインが3,4枚控えめに飾られてあった。テーブルと座椅子がポツポツと並んでいて、とても落ち着く光景だ。明るくて優しいお母さんで、旅のことを色々と聞いてくれた。
油麩丼、ご飯大盛り無料で770円。親子丼の鳥がお麩に変わった感じ。だしの優しい味がして美味しかった。
お腹も脹れたので、今度は海沿いへと向かう。次の目的地は気仙沼のリアス・アーク美術館だ。石山修武設計の建物が不思議な雰囲気を漂わせていて、1度訪れてみたい場所だった。これまでとは打って変わってカーブもアップダウンも激しい道が続き、リアス海岸に来たことを身をもって感じる。駐車場にバイクを止めると、目の前の柵のあちこちに白く光る細い糸で網が張られていた。その網の中心にはとても大きな女郎蜘蛛が陣取り、それぞれの陣地に餌が引っかかるのをみなジーッと待っている。そういえば3年前、免許を取りに陸前高田に来た時もあちらこちらに蜘蛛が巣を張っていた。数が尋常じゃない上、サイズも並の2,3倍あるのだ。餌が豊富なんだろうか。
美術館は崖の中腹にあり、駐車場からは階段を降りて入っていく。見ると、あせたピンク色をした小型宇宙船のような、観覧車のゴンドラのような、不思議なカプセルがふたつ浮かんでいる。なんだか子供の頃に夢で見た遊園地を思い出す。そのまま階段を下るとアプローチの広場の全貌がみえてくる。伊豆の長八美術館に行った時は荘厳な印象をうけたが、ここはもっと、なんといえばいいか、胸がさわさわするような奇妙な懐かしさがあるのだ。遊園地の廃墟のような、あるいは、古びたアパートの近くの公園のような。1万年前からこの場所にある太古の研究施設、と言ってもいい。現代人の頭では理解できない形にコンクリートがぐにゃりと曲げられている。広場を一通り見たら、大きくへんこだ金属質の壁を見上げながらガラスの出入口をくぐる。中は黒が基調の空間で、こちらは宇宙船というのが正解だろう。壁も床もやりたい放題だ。言葉では言い表せそうにないので、写真を多めに載せておく。
2階(エントランスのある階)は大きいホールがあり、三陸の文化や歴史を紹介する展示が並べられていた。1階には東日本大震災の際三陸を襲った津波に関する展示だ。津波。僕らは正直、津波が起こったことは覚えていても、それがどんなものなのか、当時の恐怖、驚き、絶望はもう忘れてしまっている。というか、テレビを通してしか情報に触れていないのだから、知らないというのが正しい。しかしこのフロアには津波が襲った直後のこわれた街の写真が大量に、撮影者の記した文章とともに展示されており、その断片に触れることが出来た。何度も繰り返されるのは「現実感がない」という文章だった。人が町を作り、その中で人が暮らし、さらに街を作りかえていく。人にとって町とはもっともリアリティのある場所で、自分が生きる根拠でもある。それが全て壊れるというのは、どれほどの体験だろうか。きっと同じような体験をしなければ一生分からないのだと思う。
その後、少し時間があったので気仙沼市復興祈念公園へと向かった。市街と海を望む小高い丘の上に、2枚の羽が祈りを捧げるようにそっと触れ合いながら佇み、遠くを見つめていた。空き地だらけの市街地の中には公共施設やお店だけでなく、新築の家も建てられているのが見えた。どうして津波が来るとわかっていながら住むのだろう。土地につよい愛着があるのか、建築の安全性を信じているのか、老い先が短いからか、はたまた何も考えていないのか。どちらにせよ、何か総合的に判断する中でメリットが上回ったのだろう。
そのあと、温泉に入った。昔ながらの銭湯で津波の被害をうけたものの、今はまた営業を再開している。温泉の2階はシェアハウスになっているそうだ。
その日は防災公園でテントを貼って寝た。
P.S. 書いてはいるのですよ。公開してないだけ。
支出 2403円
余分 12717+1597=14314円
走行距離 181km