競争に取り残されないための成長からは、距離を置きたい
以前会社でマーケティングの仕事をやっていたとき、業務スキルを高めようと必死に勉強していた。
仕事が休みの土日は、街のジュンク堂書店に行き、マーケやデザイン関連の書籍を買って読む。会社ではインスタ運用も担当していたので、その関連本なんかも買って読んだりしていた。
もちろんそうすることで、知識は得られる。成長できてる実感がある。それ自体は素晴らしいことだと感じた。
でもそうした類の成長に、心から喜びを感じていたか?答えは明確に、NO。
なぜなら当時のその成長は、純粋な学び・喜びのための成長というより、むしろ「会社で低評価されないための成長」だったからだ。
その会社では半年に1回、各部署で人事評価があった。評価項目のひとつに「自己研鑽」という項目があり、勉強が足りないと見なされると容赦なく点数を下げられる。
そしてつねに勉強してスキルアップしていかないと、社内の誰かに仕事を奪われる恐れがある。そうなると裁量が小さくなり、職場の居心地が悪くなるかもしれない。
会社員として週5で働いていると、文字どおり「会社の仕事が生活の大半を占める」ことになる。つまり会社での居心地が悪くなると、生活全体の幸福度が大きく下がりかねない。
そうなるのが不安だったので、社内で低評価されたり仕事を奪われないよう、必死に勉強 (=成長)しようとしていた。
いま思えば、そうした「会社で低評価されないための成長」に疑問がある。
成長することの本来の意義。
それはシンプルに「純粋な好奇心を満たしたり、自分自身の教養を高めたりすること」じゃないだろうか。
新しい物事を学ぶことで、喜びを感じる
自分の人間性を磨き、人生を豊かにする
そうしたこと自体がすばらしいのであって、成長の意味はそこにある気がする。
けれどこの資本主義社会では、
「競争に取り残されないための成長」
「会社で低評価されないための成長」
が重視されている面が大きいように思える。
もちろんそうした価値基準のなかでバリバリ働き、勉強し、優れた実績をだして勝ち残っていく人もいるだろう。出世争い、ポジションの奪い合い。その戦いを楽しめるタフな人もいるだろう。
ただ個人的には、そうした成長のあり方に、どこか息苦しさを感じる。
競争に取り残されないための成長からは、なるべく距離を置きたい。
「ダウンシフト」という考えには共感するが、これも「成長を強いられる世の中への違和感」から生まれている部分もあるんじゃないかと。
少なくとも自分は、「純粋な喜び・好奇心を満たすための成長」をしていたいし、その機会を意識的に選びとっていきたい。それこそが、本当の意味で人生を豊かにしてくれる成長じゃないかと思う。