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世の中に無関心でいい。小さな日常を大切に
かつて東日本大震災があったとき、京都で大学生でした。
地震が起きたあの日の夕方、友人と西院の串八 (居酒屋) で、呑気にビール片手に串カツを食べていました。カウンターの店員さんが「東北で地震があったらしい」と知らせてくれました。
それからしばらく、学校でも福島原発の話題が持ちきりに。
「乗り遅れたらマズいかも・・?」という若干の焦りから、いざ話を振られたらすぐ意見を言えるようにと必死に調べ、準備していました、、(笑)
世の中で起きることに関心をもつ。
自分から、積極的に調べてみる。
それ自体は素晴らしいことだと思います。
「もっといろんなことを知りたい」という純粋な好奇心から、どこか遠くの国の社会問題について、無目的に調べていた時期もあります。
ただ、そうやって時間を費やして調べたことの90%くらいは、のちにスッパリ忘れた印象。
自分の知的能力の問題もありますが、もうひとつの原因は「自分自身の生活との直接的な関わりが感じられず、印象に残りにくいから」じゃないかなと。
そのうち、
「世の中で起きてる物事にたいして、無関心でもいいんじゃないか」
と考えるようになりました。
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働くようになってとくに感じたこと。
それは、「自分という人間のちっぽけさ」です。
スーツを着て都会の人混みを歩いているとき。「自分がいなくなってもこの世の中は依然おなじスピードで回り続けるんだろうな」と思うと、このどうしようもなく巨大な社会における自己の影響力の低さを実感させられます。悲観的になっているとかじゃなく、客観的事実として。
アメーバ以下の影響力しかもたない自分が、どこか遠くで起きる戦争・事件・政治問題に関心をもち、議論を交わしたところで、おそらく何も変わらない。
それなら、そうしたことはもっと優秀な人たちに任せて、自分は身の回りの日常を豊かに生きることに集中すればいいんじゃないか。
世の中に無関心でいることは、冷たいことかもしれません。世間知らずかもしれません。でもそれでいいんじゃないかと思います。
この限りある人生の時間は、目の前にあるもっと小さく、もっと大切な物事のために費やせばいいのではないかと。
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