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親孝行ってなんだろう

こちらの記事の内容と若干重複しますが、強迫観念のようにこびりついた「親孝行をしろ」という創価学会伝統(?)の指導。



わたしは、家事の手伝いをしバイトを掛け持ちし就職後は収入の半分以上を生活費という名目で家に入れお祝い事は盛大に祝い「お母さんに楽をさせる」ためなら、必死にやってきた経緯があります。

泥酔した母の介抱も当然だと思っていました。

母の終の棲家にと、莫大な借金を背負い、家も買いました。




結果、どうなったかと言えば、母は「お金がない」ことを理由に老後資金の貯蓄もなく、子どもの金をアテにするようになってきました。


それでいて、安心して住める家があり豪華ではなくても生活に困らない程度の経済力を得たその子どもの現状は、本人の努力は関係なく「すべて自分の祈ってきた結果=功徳」と豪語するに至りました。




わたしがどんなに宗教に疑問を持っても、それが「親孝行だ」と信じてやってきたことは、母から「自分で生きる力」を奪ってきてしまった、ということだったことに気づいたのはほんとうについ最近で、それについては申し訳なかったなという思いもあれど、やっぱり宗教由来の


・悪いことはすべて前世の自分のせい(宿業)

・良いことはすべて功徳(ご本尊様のおかげ)


という「今を生きる自分がどこかにいってしまっている」かのような思い込みは、恐ろしいなと感じました。



「わたし実は、年取ったらこういう風になる(自分はラクして、子どもが家建てて親の面倒を見る)って祈ってたきたからね」


「戸田先生も60過ぎたらラクになるって言ってたし、ほんとうにそうなった!」

「あなた(一花)が今の立場とか収入とか得てるの、自分の努力のたまものとか思ってる? (一花、うん、と答える) あ~、そうなんだ、でも違う(あなたの努力関係なくわたしが祈り続けた結果だ)から」



と、鼻で笑いながらドヤられたときの衝撃たるや^^;

そもそも子どもを自分の老後の世話要員って想定してるのも、アレだけどw




宗教に限らず、自分の人生の基準を自分ではない何か、誰かにおいて生きることはとても危険だな~と思います。


何があっても、良くも悪くもその何かや誰かに主導権を渡しっぱなしってことだもんね。





だから、自己肯定感が恐ろしく低い。






今からでも遅くないと信じ、少しずつでも、この長い年月をかけてガチガチに固めてきてしまった母のわたしに対する依存をほどいてゆきたい。






それがわたしの親孝行なんだろうなと、思います。

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野嶋 一花
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