【かんたん人物史・大谷吉継編①】誕生から羽柴秀吉に仕えるまで
※この記事は、2020年7月3日に上げたものを加筆・修正したものです。
大谷吉継は、非常に資料が少なく謎多き人物です。
ですが、私を含めて彼の事が大好きな戦国ファンは多くいます。
今回は、大谷吉継の誕生から羽柴秀吉に仕えた時期について、簡単に記事にまとめたいと思います。
プロフィール
幼名 慶松(桂松とも)
通称 紀之介、大谷刑部
号 白頭
官位 従五位下 刑部少輔
主君 豊臣(羽柴)秀吉、秀頼
城主 越前敦賀城(福井県敦賀市)
通称は、諱(いみな)という、今で言う所の本名を呼ばれないための仮の名前の事で、号は今で言うペンネームみたいなものです。
誕生
吉継の誕生した年は長い間、永禄2年(1559年)説が主流となっていましたが、現在では永禄8年(1565年)説が有力視されています。
同年5月19日には、室町幕府第13代将軍である足利義輝が、暗殺された永禄の変が起こっており、正に世情が大混乱の最中に彼は産声を上げたのでした。
父親についてはいくつかの諸説があり、豊後(大分県南部)の大名大友宗麟の家臣・大谷吉盛とも、近江(滋賀県北東部、米原市南西部)の国衆・大谷吉房とも、更には坊官(門跡寺院に仕える僧、帯刀や肉食、結婚も認められていました。)の大谷泰珍とも言われています。
現在大谷吉房説が有力視されていますが、とにかく資料が少なく、どの説もいまいち決定打に欠けています。
母親については、父親に比べればはっきりしていて、北政所(秀吉の妻ねね)の侍女である東殿です。
彼女は豊臣政権下でも相当力を持っていた様で、『兼見卿記(京都吉田神社の神主吉田兼見の日記)』にも彼女の名前が出ており、どうやら外部との取次役として北政所に通じる窓口の役割を担っていたとされています。
羽柴秀吉に仕える
では、大谷吉継が、羽柴秀吉に仕える様になったのはいつ頃からでしょうか。
天正6年(1578年)、美作(岡山県北部)の国衆・草刈氏の記録(『草刈家証文』)によると、山伏の姿に変装した大谷慶松(吉継)という男が、織田信長からの内応(寝返り)の誘いに応じた草刈景継宛ての朱印状を所持していたのを、毛利衆に捕縛されてその朱印状を奪われてしまった、という事件が発生しました。
慶松というのは吉継の幼名で、この時吉継は14歳。元服前後での出来事と思われます。
元服前後という事であれば、幼名を名乗っていてもおかしくはありません。
ですので、草刈氏の記録にあるこの慶松という山伏姿の男が、大谷吉継の事であるという事は十分に考えられます。
この頃播磨(兵庫県南西部)周辺で毛利家と対峙していたのは、羽柴秀吉です。
そして吉継の年齢的にもこの一件が、秀吉配下としての最初の事例だと言えますし、吉継が秀吉に仕え始めたのが少なくとも天正6年以前の事であると考えられます。
また吉継が、秀吉に仕官した理由についても母親の東殿が、秀吉の正室である北政所の侍女であったという事が、理由の一つとして挙げる事ができます。
これ以降、天正11年(1583年)に起きた賤ヶ岳の戦いの前哨戦頃まで吉継の名前は出てきませんので、秀吉の中国攻めに従軍していたのか、どこかの城に詰めていたのか不明ですが、秀吉配下として自分の責務を全うしていた事は想像に難くありませんね。
まとめ
以上、簡単に大谷吉継の誕生から羽柴秀吉に仕えるまでをまとめてみました。
大谷吉継の子供は、大谷吉治(大学助)と真田幸村(信繁)の正室竹林院がいたと言われていますが、吉継の妻の存在は不明です。
また、吉治は養子で、竹林院は妹だとする説もあり母親の東殿の事以外は、はっきりしたことはわかっていません。
家族関係だけでも非常に謎の多い人物です。
次回の【かんたん人物史 大谷吉継編】は天正11年(1583年)に起きた賤ヶ岳の戦いから、吉継の足跡を簡単にまとめていきたいと思います。
【参考文献】
外岡慎一郎「大谷吉継」(シリーズ【実像に迫る】002) 戎光祥出版株式会社(2016),
「大谷吉継と石田三成」(洋泉社MOOK 別冊歴史REAL) 株式会社 洋泉社(2016),
図録「大谷吉継 人とことば」 敦賀市立博物館(2015),