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つないだ手

自然豊かな山間の集落で暮らしている。車で10分も走れば、とてもきれいでおいしい水が湧き出す水源が2つもあり、夏場は月に2〜3回、水を汲みに行く。よく行くほうの水源のたもとにはこじんまりとした無人の神社がある。目の神様が祀られていると聞き、水をいただいた後にはお礼参りをしたあと、最近著しく落ちてしまっている視力の回復をお願いして帰ってくる。

水源ではあまり人に会うことはないが、今日は珍しく人の姿があった。50〜60代くらいの、夫婦づれに見える男女。きちんとした身なりをしているので、地元の人ではないと思われる(地元の人はTシャツに短パン、サンダルといった姿で水汲みに来る人が多く、わたしもその一人だ)。

女性は白いワンピースに麦わら帽子、男性は生成りのポロシャツにチノパンツ姿。狭い道で歩いている2人とすれ違い、通り過ぎたあと、バックミラーで後ろを見やると2人は手をつないでいた。手をつないでいる大人を久しぶりに見た、と思った。

わたしが手をつないだのは、いつのことだったろう。ゆっくり思い返してみると、彼の顔が浮かんだ。

「ぎこちない」。わたしたちは、ずっとそうだった。長いこと友人だったこともあり、付き合いだしてからも、体に触れるのがなんだか気恥ずかしかった。

遠距離恋愛をしていたとき、久しぶりに彼の住む街へ会いにいった。その一月ほど前、「一緒に暮らさないか」と言われた。ちょうどそのとき、わたしは仕事を辞めたタイミングで、これからどこで暮らそうかと考えていた。正直、彼と暮らすことは頭になく、今後やりたいことのために、さらに距離が離れる街に移ろうか、なんてことも考えていた。

結婚を意識していた相手だったが、このまま離れたらこの人との将来はないかもしれない、とも薄々勘づいていた。とても大切な人だったので、とても悩んだ。そして、一緒に暮らそうと決めた。

彼はとても喜んでくれたけれど、関門が一つ待っていた。わたしの母は、結婚を前提としていない同棲を快く思っていなかったため、母を説得する必要があった。すでに父が亡くなってひとり親だったこともあり、なるべく無駄な心配はかけたくなかった。

観光名所にもなっている大きな公園を散歩しているとき、彼が「お母さんに電話しよう」と言った。きちんと話して、同棲の許可をもらおう、と。不意の言葉に驚いていると、電話をつないでとお願いされた。そして彼は、真剣に付き合っていること、一緒の時間を少しでも多く過ごしたいことなどを母に話す間、ぎゅっとわたしの手を強く握っていた。その手は大きくて温かく、わたしは心底、安心した。この人なら、大丈夫。そう、思った。

あとで聞いたら、母はとても嬉しかったらしい。もちろん先のことはわからないけれど、電話の様子から、彼がわたしのことをとても大切に思っていることが伝わってきたから、と。

一度だけ、彼の職場の後輩とその彼女と、一緒に飲みに出かけた。わたしより7歳以上も若い彼らは、人前でも堂々と手をつなぎ、ふざけてハグしたりしている。わたしはそんな彼らを微笑ましく思いながらも、少しだけ羨ましかった。その日の帰り、彼らと別れてタクシーに乗り自宅へ戻る途中、彼がそっと手をつないできた。「あの2人が人前で手をつないでいるのを見て、いいなと思っちゃったよ」と、ポツリとつぶやいた。同じ気持ちでいたことが、とても嬉しかった。

彼と別れるとき、わたしたちは最後にハグをした。お互い嫌いになって別れたわけではなかったけれど、そのときに伝わってきた彼の体温には、あのとき公園で感じた温もりは感じられなかった。